ROCK、POPの名盤アワー

~ALBUMで堪能したい洋盤、邦盤、極めつき音楽遺産~

#013『PRIVATE EYES』DARYL HALL & JOHN OATES(1981)

 

 

これぞ80年代傑作アルバム・ジャケットに数えられる一枚だ

 

『プライベート・アイズ』ダリル・ホール & ジョン・オーツ


sideA

1. Private Eyes(プライベート・アイズ)

2. Looking for a Good Sign(グッド・サイン)

3. I Can’t Go for That(アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット)

4. Mano a Mano(マノ・ア・マノ)

5. Did it in a Minute(ディッド・イット・イン・ア・ミニット)

sideB

1. Head Above Water(ヘッド・アバブ・ウォーター)

2. Tell Me What You Want(テル・ミー・ホワット・ユー・ウォント)

3. Friday Let Me Down(フライディ・レット・ミー・ダウン)

4. Unguarded Minute(アンガーデッド・ミニット)

5. Your Imagination(ユア・イマジネーション)

6. Some Men(サム・メン)

 

 

[Recording Musician]

Daryl Hall : Vocals, Keyboards, Synthesizers, Mandar guitar, Mandola, Mandocella, Timbales, Compurhythm

John Oates : Vocals, Guitar, Mando guitar, Keyboards

 

G.E.Smith : Lead guitar, Vindaloo solos

Jerry Marrotta : Drums

John Siegler : Bass

Charlie De Chant : Saxophone

Larry Fast : Synthesizer, Programming

Mickey Curry : Drums on 〝Head Above Water〟, 〝Looking for a Good Sign〟,〝Private Eyes〟, 〝Mano a Mano〟

Chuck Burgi : Drums on 〝Your Imagination〟

Jeff Southworth : Guitar solo on 〝Unguarded Minute〟

Ray Gomez : Lead guitar on 〝Mano a Mano〟

Jimmy Maelen : Percussion

John Jarrett : Background on 〝Mano a Mano〟

 

Produced by Daryl Hall & John Oates

 

 

 

 

初めて見た外タレの来日公演がホール&オーツだった

 

 洋楽を意識して聴きはじめたのは中学に入ってからだった、1980年。御多分に洩れずビートルズ、アバ、ビリー・ジョエルあたりだったと思う。

 主にFMラジオから流れる曲を耳にして、気に入ったものをFM誌でいつまたオンエアされるかを確認して、エア・チェックするという感じだった。

 前にも触れたが、FEN(Far East Network)もよく聴いた。言ってることはほとんどわからなかったけど、当時は一番早くアメリカの音楽シーンに触れることができて、ダラダラ聴きしてた。

 そんな日々を送っていた中学時代。ある日、ラジオから流れてきたのがホール&オーツの「Kiss on My List」だった。オッ、とすぐに耳が反応した。常にバックで叩かれるエレピのリズムと、独特のハーモニー、ダリル・ホールの声に一瞬にして魅せられた。のちに知ることになるが、彼らは「ブルー・アイド・ソウル」と呼ばれるほどブラック・テイスト溢れる音楽性で、そんな音楽的素養がまだない私はそれでもそのあたりの匂いを感じ取ったのだろう。痺れた。

 ちなみにこの曲は彼ら初のゴールド・ディスク(100万枚セールス)受賞曲だ。

 そのあとに発表されたのが今回紹介するアルバム、『PRIVATE EYES』。このアルバムが発表された頃に、当時の洋楽ファンが毎週欠かさずに見ていた「ベスト・ヒット・USA」がテレビ朝日ではじまったのだ。

 小林克也が流れるような英語で曲紹介し、アーティストたちが積極的に作りはじめたプロモーション・ビデオ(今で言うMVのことを当時はプロモーション・ビデオと言っていたのです)をチャート形式で流す番組だ。当時、洋楽のビデオを見られる番組はこれしかなかったから、土曜の夜は結構上気してテレビの前に座ったものである。同世代の人にはわかるはず。

 1982年、この番組でよく流れていたのがホール&オーツの「Private Eyes」だった。探偵に扮したホールとオーツとバンドが、ちょっと上にセットされたカメラを見上げながら歌い(よくよく考えれば、これは監視カメラだ)、演奏する。そう、虫眼鏡を持ってたな、ホール。探偵だからか。今思うとちょっとおかしい。しかしヘビー・ローテーションだったくらい、売れていたのだ。

 1982年は中学3年で、高校受験を控えていたわけなのだが、朧ろな記憶には小林克也の顔と声ばかり。そしてその秋、はからずもホール&オーツの来日公演を見るという僥倖が待っていたのだ。

 1982年11月3日、NHKホール。これが私の初の外タレのライブ体験だった。外タレって言い方は今はしないのか。外国人タレントを略して外タレだったのだと思うが、そんなことは考えるまでもなく海外のアーティストは外タレだった時代だ。

 何故そんなことになったのか。自分の小遣いで海外アーティストのライブを見られるほどの余裕はない。見たいライブは星の数ほどあったが、高校に入ってアルバイトしてでないと無理。

 そんなもどかしい思いをしていた私に、神は微笑んでくれたのか。

 ライブの前日である11月2日に叔母から電話があった。

 明日、ホール&オーツのライブがあるんだけど、行かない?

 えっ、なんで。一緒に行く予定だった叔父が、どうしても外せない仕事ができてしまい、行けないということだった。それで白羽の矢だ。

 私の母の弟がその叔父で、その奥さんが叔母だ。年は20歳くらいしか離れていないから、当時まだ35歳くらいか。外タレのライブにだってバリバリに行きたい歳だ。

 で、中学になってから洋楽を聴きはじめた15歳の甥に声がかかった。東京周辺に住んでいる親戚でホール&オーツを聴いている人はおそらく私だけだったのだろう。いや、きっと叔母は自分の友だちだって誘えた筈である。とすると、洋楽を聴きはじめた甥にスペシャルな体験をプレゼントしようという、親戚縁者のはからいだったのでは、と今にして思う。

 その電話を受けたあと、まさに地に足がついていないような気分だったことを覚えてる。

 いきなり、明日、ホール&オーツを見られる。

 本当はきっと、自分でチケット取って、公演日までの2~3ヶ月をドキドキしながら待つというのもいいものなのだろうが、しかしそんなことはそのときは考えてなかった。

 11月3日、NHKホールに初めて足を踏み入れ、それだけでもうピークを迎えてしまう。しかも席はステージに向かって右寄りの5列目くらいだった。ステージ上でシャウトしたら唾が飛んできそうなほどの距離だ。

 誘ってもらって嬉しかったが、しかし中3男子が叔母とペラペラ喋るはずもない。でもまあ、喋らずとも上気した私の顔を見ていれば叔母もそれで喜んでいたのではないかと思う。高まる気持ちを抑えつつほとんど黙ったまま開演を待つ。

 そして場内の灯りがバサッと落とされ、真っ暗なステージ上にメンバーが持ち場に向かっていくペンライトが動いてる。それが消えると、ほどなく大音量と眩しい光が場内に満ち溢れた。

 1曲目は「Did it in a Minute」だった。好きな曲だったのでこれまた気持ちの針が振り切れる。私の前ではピンクの派手なジャケットを着たG.E.スミスが変な体の動きをしながら味なギターを弾いていた。その左横にジョン・オーツ、さらにその横にダリル・ホール。うしろにドラムのミッキー・カーリー、ベースのT. ボーン・ウォーカー、サックスのチャーリー・デ・シャント。そう、その後迎えるホール&オーツの全盛期を支えた不動のメンバーだ。

 このバンドは本当にすごい。ホール&オーツはデュオと呼ばれるが、いやいや彼らはバンドなのだ。私は今でもそう思っている。少なくとも1980年代の中期は。

 実際、彼らのプロモーション・フィルムのほとんどにバンドのメンバーも登場する。しかもかなり大切な役割、存在として。これはダリル・ホールとジョン・オーツの彼らに対する敬意や感謝、さらには依存なども含めた信頼なのだと思う。楽曲制作は二人が担当するものの、サウンド・メイクやライブではほとんどバック・バンドという感覚なしに活動していたのではないかと思う。そしてさらにその各々のキャラクターをも、当時の彼らには絶対に必要だったのだ。だからバンドなのだ。

 その日のライブは近作3枚を中心に、彼らの代表曲を惜しげも無く次から次へと披露してくれる、大盤振る舞いの内容だった。ニュー・アルバムの『H2O』は前月にアメリカでは発売されていたが、日本でももう発売されていたか。「Maneater」と「Family Man」が演奏された。

 当然「Private eyes(パン👏)、Watching you(パンパン👏👏)」はやった。ハンド・クラッピンですね。中3の私が一番グッときたのはやはり「Wait for me」だった。イントロとアウトロのG.E.スミスのソロが聴かせた。相変わらず動きも表情も変だったが。

 彼らのルーツがソウルやR&Bであることも、若輩ながらそのステージから感じ取ることができた、大雑把にだが。

 大音量の中で心踊らされた2時間ほど。帰りは興奮して、その日のステージのことを結構話したような。

 ライブってこんなに心が揺さぶられるものなんだと初めて感じた一日だった。この日がなかったら、ライブ漬けの高校時代はなかったかもしれない。

 当時、NHK総合不定期ではあるが外タレの来日コンサートを流してくれていた(「ヤング・ミュージック・ショー」と言ったと思う)。この日のライブも放送してくれた(正確には翌11月4日の公演で、その日が最終日。何ヶ月か前にポリスもやってくれた、それも見た。確かホール&オーツのはその年末の夕方だった。暮れかかる窓の外を背景にして、テレビにかぶりつきだった)。

 で、我が家は確かこの少し前にビデオ・デッキを購入していたのだ。他の家よりは少し早かったと思う。VHSとbetaが主権争いをしていた頃だ。うちはVHSだった。

 60分のビデオ・テープを購入し、このライブは当然録画した。その後何回見たことか。今でもクローゼットのダンボールの中にあるはずだ。

 ホール&オーツは長い試行錯誤の期間を経て、ようやくビッグ・ヒットを勝ち得てスターダムにのし上がった。だが、今振り返ってみると、チャートの上位常連だった時期はそれほど長くない。1980年代前半を代表するアーティストであることに疑いはないが。

 その一番旬な時期に、私は一番多感で吸収力のある世代だったのだ。だから彼らは永遠に私のポップ・アイコンとして40年経った今でも脳裏で輝いているのだ。

 

「Private Eyes」のPVもまた、MTV時代の幕開けを印象付ける一本だった



前作よりもよりポップ・ロック色が強いサウンド

 

ブルー・アイド・ソウル」と呼ばれる彼らのサウンド。本作も随所にそれは感じられるのだが、前作『Voices』と比較すると、よりポップ・ロック色が前面に出ている。研ぎ澄まされていると言ってもいい。とそれは1曲目の「Private Eyes」が象徴する。エイト・ビートのタイトでシンプルなリズムにギターの強いリフがアクセントを作る。そこに「Kiss on My List」同様の「8分の1と4拍」目にエレピのアタックが入るという、もうこれぞホール&オーツ・サウンドの極みみたいな曲である。

 ポップ・ロック色が濃いとは言え、やはりダリル・ホールの節回しや声そのものに、まごうことなきソウル魂が吹きこぼれている。とりわけギター・ソロ後の唸り絞り上げるような声に、先人たちへの敬意を感じる。

 山下達郎氏は「長く聴き継がれるために最も必要なことは良質なアレンジ」というようなことを常々言っているが、この「Private Eyes」が未だ鮮度を失っていないのもそこにあると思う。無駄ない土台の上に鍛え上げられた音、声が迷いなく乗ってくる。それがいつまでも心地よく耳に響く。

 ’80sを代表する曲だ、ここであまりくどくどと言わなくったって、あうんの呼吸で理解していただけるだろう。

 と言いつつ、2曲目の「Looking for a Good Sign」はソウル・テイストたっぷり。彼らのルーツ・ミュージックへのオマージュとも取れるほど、コテコテのサウンドだ。ホーン・セクションと言い、バック・ボーカルと言い、これはもうブラック・ミュージックそのもの。加えてベース・ラインとシンプルなパーカッションのAメロが、なんてことないようでいて非常に味わい深いのだ。

 そして当時の自分内で最も物議を醸し出したのが、「 I Can’t Go for That」だ。今でこそ超がつくほどの名作として聴き継がれているが、当時は驚きとともに静聴したものだ。

 シンプルなリズム・ボックスの気だるいビートからはじまる。ともすればチープにも思えなくもない音。そこにベースのリフレインが重なってくる。かなり機械的な印象だった。今聴くとそうでもない。それはまだ80年代初頭の音楽手法の中で、という説明が必要となる。今の我々の耳は電子サウンドにすっかり馴染んでしまっている。しかし当時はまだシンセサイザーがポップスに取り入れられはじめてたかだか数年という時代。単調なリズム・ボックスの音がポコポコいってるだけで、「これはテクノか」と感じたのだった。

 それはさておき、その無機的とも単調とも思えるサウンドに、それでも血の通った何かを感じさせるのがこの曲の、このバンドの力量と言える。そしてそれがこの曲をモンスター化させた要因なのでは、とも思う。

 シンセの浮遊感漂うキラキラ音と、ミュートしたギターのコッコッコッコッコーッがキモだ。そしてドゥーワップ調のコーラス、サビの掛け合い。シンプルでありながら実に凝ったアレンジとなっているのだ。

「 I Can’t Go for That」を超意訳すると、「そりゃ無理だ」という感じか。そしてこのタイトルにカッコつきで続く「no can do」という言葉だが、これは文法的には間違っている、と小林克也ベストヒットUSAで言っていた。そのくだりを引用抄訳すると、この「no can do」を使いはじめたのはアメリカへの中国移民だという。わかりやすい言葉を組み合わせたchinese english、ということらしい。そのニュアンスをダリルは取り入れたかったのだと。このあたりの話は面白い。異言語文化の人にはそこまでわからないし、なかなか知ることもない。

 ちなみにこの曲は1982年1月最終週の「American Top 40」でNo.1を獲得しているのだが、同じ週にチャート・インしているのが「Waiting for a girl like you / Foreigner」(No.2)、「Centerfold / The J.geils band」(No.3)、「Physical / Olivia newton john」(No.4)、「Let’s groove / Earth,wind&fire」(No.8)と錚々たる面々、聴き継がれる名曲たちである。 

 A面4曲目はギターのハウリングからはじまるR&Bテイストの濃いロックンロール、「Mano a Mano」。ジョン・オーツがリード・ヴォーカル。そしてこの曲は本アルバムで唯一の、ジョン・オーツ一人による作詞曲のナンバーだ。

 もう一曲、B-3の「Friday Let Me Down」もジョン・オーツのリード・ヴォーカル曲なのだが、こちらは曲はジョン・オーツで、詩は彼に加えてダリルと当時のダリルの恋人であるサラ・アレンがクレジットされている。そう「Sara smile」のサラだ。彼女は作詞家として彼らのアルバムに全面参加しており、本アルバムでも実に7曲にクレジットされている。もっとも彼女一人での作詞はなく、すべてダリルやジョンも共作者として併記されている。このあたりもホール&オーツの楽曲制作の面白いところだ。

 そして気になるのがこの「Mano a Mano」という言葉だ。これはスペイン語である。英語で言うところの「Hand to Hand」、つまり「手と手」あるいはもっと意訳して「手と手を取り合って」というのが本来の意味。だが実際には「1対1」とか「直接対決」といった意味で使われることが多いと言う、慣用的に。ではそれを英語で言うとどうなるかと言うと、これが「One on One」なのである。次の彼らのアルバム『H2O』にこのタイトルの曲が入ってますね。大ヒットもした。面白い符号だ。もちろん彼らはそれを承知でそんなタイトルをつけてニヤリと微笑んでいたのだろうけど、これもまた異言語文化の人には見えてこないニュアンスと言える。

 A面最後は「Did it in a Minute」。「Private Eyes」と同じく「8分の1と4拍」目にエレピのアタックが入る正調ホール&オーツのポップ・ロック。1982年のライブのオープニングを飾った曲だけに、実に軽快で乗せてくる。ダリル・ホールの立って弾くキーボード姿がカッコよかった。

 この曲は比較的クセもなく、アクもなく、誰にでも受け入れられやすい曲調なので、中3当時の私も「Private Eyes」の次に耳に馴染んだ曲だった。コーラスや掛け合いやスキャットや、とにかく声があらゆる手法で音空間を舞う彼らの代表作はここで半分終了。

 

 

B面後半の侘び寂びが染みる、そこに彼らの本領がある

 

 B面最初はノリのいいストレートなロック「Head Above Water」。歌詞は海の恐怖と戦う船乗りの歌で、そのわりにはアップな曲調なので、決してシリアスな雰囲気は感じさせない。キラキラした印象。

 B面のこの曲から3曲目までは、ドラムの音がかなり抜けているように聞こえる。それが1982年当時は鮮度の高い太鼓の処理方法だったのだろう。だが、このわずか2~3年後に、New YorkのPower Station Studioで生まれるドラムの音が世界を席巻した。いわゆる「Power Station Sound」と呼ばれるもので、さらに太鼓のアタック音を強めながら空間処理を施し、ほどほどのところで残響音をカットするというもので、もはやリズム楽器にとどまらない存在感を誇った。

 代表的なのはそのスタジオ名をそのままバンド名にした「The Power Station」で、ボーカルはロバート・パーマーDuran Duranのアンディー・テイラーがギター、同じくジョン・テイラーがベース、ドラムにトニー・トンプソンというメンバーで、プロデューサーはChicのバーナード・エドワーズ。ドラムの音だけで伴奏になるっていうくらい過剰に作り込んでいた。

 このPower Station Studioで生まれた名盤は数知れない。デヴィッド・ボウイブルース・スプリングスティーン、マドンナ、ダイアー・ストレイツetc。

 その後このスタジオは「Avatar Studio」と改称している。

 日本にも「日清パワーステーション」という名のライブ・スペースが1980年代後半から10年くらい存在してた。そのくらい時代を切り取る文化言語となったのだ、「Power Station」。

 ホール&オーツはこのスタジオでのレコーディングはないが、同時代のNew York Soundの一翼を担っていたのは間違いなく、方向性は一緒だったように思う。それがこのB面の3曲には現れはじめており、その極みは1984年発売のアルバム『Big Bam Boom』だろう。このアルバムか、『PRIVATE EYES』かで結構迷ったのだ、ここで取り上げる作品を。初期衝動ということが最後の決め手になったのだが、

 次が「Tell Me What You Want」。アップ・テンポだがソウル色の強いロック。途中、ベース・ラインが中南米系のテイストを帯びる部分がいい。アレンジが初期のポリス風にも思える。とは言え、やはりホール&オーツのロックンソウルの曲である。

 B面3曲目もまた気持ちが上がるテンポのロック「Friday Let Me Down」、ジョン・オーツのリード・トラックだ。だがタイトルをよく見ると、「金曜日は落ち込む」といった意味だ。普通の感覚だと金曜日は一番ハイになるはずなのだが。サウンドはCDのライナー・ノーツでも触れていたが、チープ・トリック風ではある。

 ここまでの3曲の歌詞は、どれもスカッと気持ちのいいものではない。なんとなくわだかまりまある、少し重い気分を感じさせる内容だ。サウンドはどれもいいノリなのだが。

 そしてここからの3曲が、本作での私的にとても重要な3曲、思い入れの大きな3曲なのである。

 B面4曲目が「Unguarded Minute」。マイナー調、ミドル・テンポの佳曲で、これも十八番の「8分の1と4拍」に拍に強いアクセント。それ故、ホール&オーツっぽいとも取れるが、いやそればかりとも言えない。これはごく個人的な感覚なのだが、この曲には日本の湿っぽさを感じさせるのだ。乾いた土地では生まれない独特の多層の感情。それこそ侘び寂び的な趣きがふんだんに漂っているといったような。

 本アルバム内ではとりわけ地味な部類の曲と言えるのだろうが、しかし聴くたびに体のうちからもぞもぞといろんな感覚が湧き出してくる。私にとってはそんな曲で、もはやこの曲なしに『PRIVATE EYES』は語れない、といった重要なポジションとなっているのだ。

「Unguarded Minute」は「ガードしていない瞬間」、訳詩では「うっかりしてる間に」とある。そしてそう歌ったあとにバック・コーラスが「watch out」と囁く。これは「Private Eyes」の「watching you, watching you, watching you」を受けているとも取れる。このあたりがアルバムとして聞いて「オッ」とほくそ笑むことができる部分であり、楽しいのだ。

 そして次が「Your Imagination」。一聴すると「I Can’t Go for That」同様の初期テクノ風に感じられるのだが、それはシンセのメロディやベース・ラインが比較的単調にリフレインしていることからそんな印象を受けるのだ。

 とは言え、万人に好まれるような曲ではない。ポップな部分もなく、劇的な展開もない。機械的に演奏が続いていく中でダリルのシャウトが響き、デシャントのサックスが伸びる。それがクセになる。確かに当時はそれほどの印象を持たなかったこの曲、しかし10年して、20年してアルバムを聴き返すたびに、この曲の魔力にがんじがらめにされていった。そう、魔の力なのだ。

 21世紀になって、Youtubeなどで昔の映像を簡単に発掘できるようになって、この曲のPVを見たのだった。当然当時も見ていたはずだが、ほとんど覚えていない。しかし改めて、淡々としつつもソウルのエキスを含んだ6人の立ち居や仕草、演奏に「こりゃ本物だわ」と脱帽したものだった。

 彼らもこの曲は好きだったのだろう、シングル・カットしているのだ。最高位は全米33位。売れるとは思えないよ、通好みすぎる。でも、そういうところが好きだ、彼らの。

 最後はキレのいいリズムでいきなりはじまる「Some Men」。この曲はかっこよかった。本アルバムにしても、次の『H2O』にしても、シングル・カットしていない曲に相当な名曲が潜んでいる。チャートを賑わす曲が「表」なら、これらは「裏」だ。ホール&オーツの「表」だけを見て評価してはいけない。「裏」にこそその本領が現れていると言っては、言い過ぎか。

 歌詞は「いろんな人間がいていいんだよ、それで君はどんな人間なんだい」と言ったような示唆に富む内容。

 間奏から後半にかけてのG.E.スミスのギターが疾走する。バンドもどんどんハイになっていく。聴くほうも高揚感は絶頂に達する。そして煽るだけ煽ってフェイド・アウトしていくのだ。ずるい。盤をひっくり返して、また一から聴きたくなってしまう。

 本作はバンドとしての形がほぼまとまってきた時期の勢いある1枚なのだ。

 

 

やたらクセのあるメンバーたちのことについても知っておきたい

 

技術もキャラも最強の6人、こんなバンドはもう出ないかも

 

 本作から『Big Bam Boom』までの3枚のアルバムがこのバンド、パーマネントなメンバーで製作されており、これこそが音もキャラもDARYL HALL & JOHN OATESなのだと私は思っている。そのくらい濃く、強く、揺るぎなく、至高のメンバーであり、バンドなのだ。

 だから、彼らについてももう少し触れておきたい。

 まずはギタリストで、もっとも強烈な存在感のG.E.スミス。フルで記すとジョージ・エドワード・スミス。現在70歳。ホール&オーツには1979~1985年の間、サポート・メンバーとして在籍。父はレバノン人で、幼少時はスミスではなくハダッドという姓。

 中学時代に彼を見たときは、ちょっとクセのある、いや大いにクセだらけのギタリストだと思った。きっとみんなそう。その表情も動きもロック・バンドのギタリストという感じではなかった。でもやはりこのバンドには絶対に必要で、のちにホール&オーツが再結成して、ギターが彼でなかったときの違和感ときたら相当なものだった。

 ホール&オーツ後の彼は、アメリカの人気TVコメディ・ショーである「サタデー・ナイト・ライブ」にバンド・リーダーとして出演。この番組は1975年から現在まで断続的に放送されているお化け番組で、生放送らしい。

 レコーディングに参加したアーティストはデヴィッド・ボウイミック・ジャガー、ボデ・ディラン、ティナ・ターナー等々と大物アーティストだらけだ。

 とりわけボブ・ディランの80年代後半のツアー、「ネバー・エンディング・ツアー」に参加し、1992年のボデ・ディランの30周年トリビュート・コンサートでは音楽監督とギターという大役を仰せつかった。このライブは当時テレビで見た。

 最初は「おっ、G.E.スミスがいるじゃん」と思ってちょっと気分が上がった程度だったのだが、見ているうちに舞台上でバンドを仕切っているのがどうやら彼のようだ、と気づいて「えっ、ホントかね、バンマスかね」とぶっ飛んだ。しかしそうだ、コンダクターだ。それが個人的にとても嬉しかった。ディランの記念ライブを仕切れるとは、と。

 その後も、こうした記念ライブやアワード系の音楽監督などの仕事を結構こなしている。

 今回調べていて面白かったのは、2012年に共和党の全国大会でパフォーマンスしているということ。これに対して彼は「自分は共和党員ではないし、政治的な人間でもない。単に音楽家としてのひとつの仕事」と言っているが、2016年の同大会でも演奏している。このときの候補者はトランプ。

 とは言え、私にとってかなり愛着のあるギタリストなのだ。

 ベースはトム・T-Bone・ウォーク。ひょろりとした容姿にハンチングというこれまた個性的な雰囲気で、帽子を取ると薄毛にベビーフェイス。憎まれる要素などなし。

 ニューヨーク生まれで、12歳のときには州のアコーディオンのチャンピオンになったという経歴を持つ。ベースはポール・マッカートニーに影響を受け、ニューヨークのバーで演奏している頃にG.E.スミスと出会う。その後、スタジオ・ミュージシャンのような仕事をするようになり、1981年にホール&オーツのバンドのオーディションを受けた。そして全盛期のバンドメンバーとして多くのヒット曲に参加する。

 ホール&オーツ活動休止後はG.E.スミス同様「サタデー・ナイト・ライブ・バンド」のメンバーとなり、さらにカーリー・サイモンビリー・ジョエルなどの活動に参加。中でもエルヴィス・コステロの4枚のアルバム製作に携わったことは、大きなキャリアとなっている。

 ホール&オーツ再結成後もベースとして参加。後半生の仕事としては、ダリル・ホールがネット配信という形で2007年に開始した「Live from Daryl’s House」に主要メンバーとして顔を見せてくれたのが印象に残っている。

 この番組はのちにTV番組にもなり、今でもネットで見ることができる。基本的には毎回ダリルの自宅にゲストを招いてセッションしたり、料理したり、他愛ない話をするという内容なのだが、そのゲストの選定がいかにもダリルらしいのだ。ニック・ロウトッド・ラングレン、デイブ・スチュワート(ユーリズミックス)、ブッカー・T・ジョーンズ、ジョー・ウォルシュイーグルス)等々。

 このプログラムでは、T-Bone・ウォークがかなり重要なポジションにいたことは、見ていてすぐにわかった。ダリルの彼に対する信用の度合いは、それは相当なものだなと感じた。T-Bone・ウォークがいるから、ダリルも肩肘張ることなく楽しめているようだった。

 だが、T-Bone・ウォークは2010年2月28日、58歳という若さで心筋梗塞により亡くなってしまった。先の「Live from Daryl’s House」でも追悼プログラムが組まれた。

 

「Live from Daryl's House」でのDarylとT-Bone

 

 サックスやキーボードを担っていたのは、G.E.スミスに負けずとも劣らない曲者、チャールズ・デチャント。ドイツとフランスの血を汲んでいる。全盛期メンバーの中ではもっとも古く、1976年からホール&オーツのバンドに加入した。

 ステージの後方に彼がいるだけで、何となく力が抜けたもんだ。G.E.スミスもだが。ダリルみたいなかっこいいのがずらりと並んでいたら、全然違う印象のバンドだっただろう。ジョン・オーツも個性的な風貌だし、やはりこのバンドは唯一無二だ。

 デチャントはホール&オーツのこのバンドを皮切りに、ミック・ジャガービリー・ジョエルティナ・ターナーテンプテーションズなどの活動にも参加している。

 また、T-Bone・ウォークとともに「Live from Daryl’s House」にもしばしば参加していた。再結成後のホール&オーツの活動にもメンバーとして名を連ねている。

 そして、このバンドの中では一番普通に見えるのがドラムのミッキー・カーリー。

 コネチカット州出身の彼は、地元でバンド活動をしたのち、ニューヨークに出てきてスタジオ・ミュージシャンとして仕事をはじめる。並行して参加したバンドのマネージメントを務めていた人が、ホール&オーツのマメージメントも行っていたことから、この『PRIVATE EYES』というアルバムのレコーディングに参加しないかと誘われ、以来1986年までバンド・メンバーとして活動する。

 このホール&オーツ時代にプロデューサーのボブ・クリアマウンテンに出会い、ブライアン・アダムスのレコーディングに誘われる。これが彼にとっては良縁だった。以降、現在までブライアン・アダムスのほぼすべてのアルバム、ツアーに参加している。

 ちなみに、彼のドラム・セットはヤマハだ。

 ダリル・ホールとジョン・オーツについては長くなるので割愛。

 ひとつ触れておくとしたら、ダリルはドイツ系アメリカ人、ジョンはスペイン、アイルランド、イタリアの血を引いている。メンバーも含めて、実にいろいろな国の血が結集したバンドであり、まさにニューヨークのメルディング・ポットを体現しているかのような音楽集団なのだ。

 そんな彼らが名実ともにビッグ・ネームとして確固たる地位を得たアルバムがこの『PRIVATE EYES』だったと言えよう。いまだに時折聴いては、唸る。