#005『The Nightfly』Donald Fagen(1982)
『ナイトフライ』ドナルド・フェイゲン
sideA
1. I.G.Y.(I.G.Y.)
2. Green Flower Street(グリーン・フラワー・ストリート)
3. Ruby Baby(ルビー・ベイビー)
4. Maxine(愛しのマキシン)
sideB
5. New Frontier(ニュー・フロンティア)
6. The Nightfly(ナイトフライ)
7. The Goodbye Look(グッドバイ・ルック)
8. Walk Between Raindrops(雨に歩けば)
[Recording Musicians]
Guitar : Larry Carlton, Hugh McCracken, Rick Derringer, Dean Parks
Bass : Chuck Rainey, Anthony Jackson, Marcus Miller, Will Lee
Keyboard : Greg Phillinganes, Rob Mounsey, Michael Omartian
Drums : Jeff Porcaro, James Gadson, Ed Green, Steve Jordan
Horns : Michael Brecker, Randy Brecker, Dave Tofani, Ronnie Cuber, Dave Bargeron
Percussion : Starz Vanderlocket, Roger Nichols
Donald Fagen : Synthesizers, Synth blues harp, Electric piano, Organ, Piano,
Produced by Gary Katz
スティーリー・ダンも知らず、一切の知識なしで聴いた「The Nightfly」
中学3年の初冬頃、愛読しているFM誌のアルバム・レビューにかっこいいレコード・ジャケットを見た。モノクロ写真に青文字、ネクタイを緩めたシャツの腕をまくり、渋い短髪のおじさんがターンテーブルを前にして右手にタバコ、左手はテーブルに乗る短いマイク・スタンドを軽く押さえ、クラシックな大きめのマイクに首を傾げつつ何かボソボソと話しているような絵だ。つまりこれはラジオのDJブース内なのだ。左下に置かれているアルバムはソニー・ロリンズの「The Contemporary Leaders」とライナーノーツに小さく書かれていた。これは今回初めて気づいた。
このジャケットにいたく魅入ったのだった。
Fagenの読み方もよくわからないまま、この「The Nightfly」というアルバムが脳裏に焼き付いた。
確か土曜か日曜の0時前後の時間帯に、アルバムを全曲流す番組があり(そういう番組は他にも結構あった)、そこで「The Nightfly」が取り上げられた。
以前にもちょっと触れたが、この頃のFMは事前にどの番組でどんな曲がオン・エアされるのかが知らされていた。当時数誌あったFM誌にはいずれも2週間分の番組表とそこで流される曲がほぼすべて記されていた。その番組表に、エア・チェック(録音)したい曲をマーカーで塗る。これも楽しい作業だった。今はきっとやらないだろう、根気のいる作業なのだ。
東京にはまだNHK-FMとFM東京(現TOKYO FM)の2局しかなかった時代。FM自体がまだ開局して10年ほどの頃。AMよりも格段に音質が良く、ステレオ放送だったために、DJの話と曲のイントロが重なる今のスタイルとは異なり、曲紹介をしてからほんの少し間を空けて曲がはじまった。つまり、カセットに録音するマージンを放送局がとってくれていたのである。
さらにはA面が終わると数分のしゃべりを挟んでB面をかけるという番組も珍しくなかった。この夜の番組もそのスタイルだった。
番組表で事前にこの番組で「The Nightfly」を全曲オン・エアすることを知っていたので、カセットテープをセットして待っていた。
ちなみにこの時点で私はドナルド・フェイゲンという人をまったく知らないし、もちろん彼のバンドであるスティーリー・ダンも名前さえ聞いたことがなかった。ただ、あとで気づいたことだが、スティーリー・ダンのアルバム「Gaucho」のジャケットは見ていた。数年後にこのアルバムを見て、「これはスティリー・ダンだったんだ」と発見したことを覚えている。
ともあれ、「The Nightfly」のアルバム・ジャケットの魅力のみで、このアルバムを聴いてみたいと思ったわけだ。
休日の深夜帯、自室で初めて聴いた本作、唖然として言葉が出なかった。中3のくせに極上のサウンドに身体が動かなくなった。決して大袈裟な表現ではない。
「これは人が演奏しているのか」
それが最初に浮かんだ感想だ。正確で精緻で余計な感情がなく、一糸乱れず揺れもブレも現れてこない。いや、おそらく揺れもブレもあるのである。でもそれさえをもほとんど計算され(あるいは感覚的に)、プレイヤーたちの個々のブレをきちんと管理し、決して散漫にすることなく、グルーヴ感を生み出しているのだ。これはコンピュータでは醸すことのできない、演奏してこそのアンサンブル。
どのように録音したのか。どのくらいの時間がかかったのだろうか。わずかなミスをも許さないレコーディングだったことは容易に想像できた。当時の私でさえこれは「職人技」だと思った。
そして私はこのアルバムを日に何度も聴いた。このほとんど偶然の出会いに唸らされたわけである。
自分の人生における音楽的エポック・メイキングはいくつかある、いや結構ある。このアルバムとの出会ったことも、勿論そのひとつなのである。
歌詞はキツイが、サウンドは練りに練られて息つく間もない
アルバム冒頭を飾るのが「I.G.Y.」。これは「International Geophysical Year」(国際地球観測年)の略で、1957~58年に起きた国際研究プロジェクトのこと。気象学、海洋学のほか、宇宙線や地磁気、重力などといった計12の項目について各国協力のもとに観測、研究が行われた。乱暴に言ってしまえば「地球を知ろう、宇宙を知ろう。科学が発展する未来は明るい」という希望を持った運動だったわけである。
このタイトルでドナルド・フェイゲンはこう歌う。
情と展望をあわせ持った人間達がプログラムする
ただの機械が偉大な決定を下す
計画が完了すれば
私たちはみんな純粋そのもの
とこしえに自由で
決して年老いることもない
素晴らしい世界がやって来る
自由になれる輝かしき時代
揶揄しているのか。辛い。いや、そんなに能天気でいいものだろうか、と言っているようである。すべてがいい方向に行くわけではない、反作用も必ず現れて来ると暗に言わんとしているのでは。1982年という時代に20数年前の社会的機運を歌っているわけだから、批判というよりは諦観に近いか。
アルバムのライナー・ノーツに「Note」とタイトルのついた短い文章がある。全文紹介したい。
「このアルバムに収められている作品は、’50年代後半から’60年代初めにかけて、アメリカ北東部の郊外で育った若者が、抱いていたはずのある種のファンタジーをテーマにしたものだ。即ちそれは、私のようにごくありふれた体つきの若者が主人公ということだ。」DF
諦観の中にも郷愁が見え隠れするという思いが感じ取れる。DFは言わずもがな、Donald Fagen。
サウンドのほうはキレキレだ。キラキラするようなシンセのイントロから、アーバン・レゲエとでも言ったようなミドル・テンポの裏打ちのリズムに、情感豊かなホーン・セクションが重なる。ブレッカー・ブラザースだ。いわゆるAORと呼ばれるジャンルに分けられるのだろうが、それを完全に超越している。もはや彼自身が独立したひとつのジャンル。イントロや間奏で印象的に響くのは、フェイゲンが奏でるシンセ・ブルース・ハープとのクレジット。スティーリー・ダンでも聞かれたこの音はこれなのか。
ともあれ、この1曲で15の私は完全に掴まれてしまったのだった。
続く「Green Flower Street」はエレピのイントロではじまり、歯切れのいいクラビネットとリズム・ギターが乗ってくる軽快なポップ・ソング。だが歌詞はこれもシニカル。「殺人事件」、「夜も昼のように輝き」、「あの娘の兄貴は激怒している」、「ぼくはグリーン・フラワー・ストリートにぞっこんなんだ」。ちょっと尋常でない世界が描かれている。リード・ギターはラリー・カールトンで、「I.G.Y.」以外の全ての曲に参加している。ドラムはジェフ・ポーカロで、やはりほとんどの曲で叩いている。
3曲目はR&Bタッチの「Ruby Baby」。それもそのはず、オリジナルはドリフターズ。本アルバム唯一のカバー曲。ための効いたアレンジと美しいフェイゲン流ドゥー・ワップが身体を揺らす。間奏でキンクスの「You really got me」のメロディが奏でられるのは嬉しい遊び。その間奏のあとの転調と、最後のサビのリフレインが気持ちいい。
A面最後は「Maxine」。3連のロッカ・バラードで、ほぼ全編フェイゲンのハモりと、その裏でラリー・カールトンのインプロビゼーションが絡んでいる。音数は少ないが、効果的にオルガンやピアノがツボを抑えにくる。ホーンも浮遊感を漂わせながら背景を彩る。実に美しい楽曲となっている。歌詞はマキシンとの愛なのだが、やっぱりちょっとおかしなところがあって、じっくりと訳詞と向き合ってみて欲しい。
まったく時間の経過を感じさせずにA面が終わる。楽曲の並びの起伏も申し分ない。もちろん捨て曲もなし。
やはりこの人は声だとあらためて納得するコーラス・ワーク
B面のはじまりは「New Frontier」。新しい開拓者、何が? と歌詞を見てみる。
どんちゃんパーティがはじまるぜ
サマー・スモーカーは地下の中
共産主義者がミサイルのボタンを押したときにそなえて
ぼくの親父が作った待避壕の中さ
食糧のたくわえもあれば
ビールもふんだんにある
キーワードは新開拓地でサバイバル
つまり核シェルターの中のことであり、これが新たな開拓地なのである。毒を効かせすぎている。でもそのシェルターの中で、それまでと変わらずにパーティをして、女の子を追いかける。将来の展望を語る。だからこそ毒気がより濃くなるとも言える。
サウンドは比較的素直なアップテンポ、エレピが繰り返すフレーズと、ツボを押さえたベースが心地よい。ハーモニカのフレーズもふんだんに入ってくる。アルバム内で唯一フェイゲンが楽器演奏していない曲でもある。
次の「The Nightfly」がアルバム・タイトルにもなっているように、リード・トラックなのだろう。歌詞は深夜のDJを描いているので、アルバム・ジャケットもこのトラックを視覚化したのだ。
朝になると終わる深夜放送のDJ。一匹狼の放送局。コールサインは「WJAZ」。
このコールサインを持った放送局は1922~1931年にシカゴにあったらしいが、その放送局を歌っているわけではないらしい。
ミドル・テンポながらリラックスした夜のムードを醸すサウンド。歌詞の通り夜のラジオから流れるにふさわしい。リラックスしながらも時折マーカス・ミラーのベーズが炸裂する部分もあったりするので、聴き流せないのである。音を切る、音を伸ばすのメリハリがよりはっきりしてて、こちらも力が入ったり緩んだりの繰り返し。
他の曲でもそうなのだが、とりわけこのB面の頭2曲はアレンジが比較的シンプルなので、フェイゲンのコーラスアレンジ、コーラスワークの秀逸さと存在感に目が行く。スティーリー・ダンでもそう。この声こそが、この声の重ね方こそが彼のサウンドのひとつの肝となっているのだ。
B-3は「The Goodbye Look」。ライナー・ノーツにはキューバの革命を歌っているようである、とある。その上で歌詞を読めば納得。
ところが今やアメリカ人はほとんど姿を消し
残ったのは二人だけ
大使館にも寄れない始末
曲中、スティール・パンに似せたシンセ音が響き、左右から押さえ気味のパーカッションが鳴る。フェイゲン流のカリビアン・ビートのアプローチ。サビの部分でものすごく低音の太鼓が鳴るのだが、これは今回ヘッドフォンで聴いていて初めて気づいた。アルバム中では異質の曲と言えるが、それでもきっちりとオリジナル・サウンドに仕上げている。誰が聴いてもドナルド・フェイゲン。
アルバムを〆るのは、明るい4ビートの「Walk Between Raindrops」。ジャジーなオルガンとラリー・カールトンの抑え気味のギターが心地よい。この曲は他の曲とはリズム隊が異なり、ドラムがスティーブ・ジョーダン、ベースがウィル・リー。ある意味、ジャズ編成となっている。
心踊り、浮き立つようなサウンドだが、歌詞はそれとは裏腹にメロドラマ。喧嘩をした男女が仲直りして、雨の隙間をついて歩いていくというもの。フェイゲンにしては素直な内容。しかもあっという間に終わってしまう。
本気のお遊びのような曲だ。
‘80年代初頭のサウンドながらも、未だお手本
図らずもこのアルバムと出会ってしまったことによって、私の耳は変わった。当時はそんなこと考えもしなかったが、今にして思えばこのアルバムでサウンド・アレンジやミキシングなどといった音作りの技術に対する意識が鮮明になったように思う。時流とか勢いとか流行とかおもねりとか迎合ではなく、音を作っていく個人的な快感というものがどんなものであるかを、開示してくれたのである。
その後、じっくりとスティーリー・ダンを遡って聴いて行った。聴いて行ったのだが、あまり即効性はなかった。もちろんすぐにハマった曲もあったが、アルバム全体を頻繁に聞くということはなかったティーンの時代。しかし年を重ねるにつれ、耳が肥えていくにつれ、じわじわとその世界に引きずり込まれていく。
決定的だったのは1990年代半ばの再結成時に発表されたライブ・アルバム「Alive in America」だった。それまでは過去の彼らを後追いしていたのだが、このときは初めてリアルタイムにスティーリー・ダンの音楽に触れた。演奏されたのは昔の曲なのだけれど、でも同時代に活動しているという現実が興奮を誘った。
そこであらためてまた昔のアルバムを引っ張り出してきて聴く。前よりもツボが増えてて、グッとくる。これをその後も何年かに一度繰り返すわけだ。
ドナルド・フェイゲンやスティーリー・ダンはAORに括られることもある。そういうテイストもあるが、私から見るとAORの端っこのほうに引っかかってるといった感じ。当時はフュージョンとかクロスオーバーなどという風な色分けもあった。ポップなジャズといった居心地のいいサウンドで、そっち系のミュージシャンもフェイゲンやスティーリー・ダンのレコーディングに名を連ねている。
私はAORが好きだ。日本のシティ・ポップと呼ばれるサウンドも、今思えば大好きだ。ジャンル分けはあまり意味がないが、あとになってそう呼ばれているミュージシャンやアルバムを眺めていると、「これ聴いた、あれも好きだった」ということが多い。だから好きだったものがAORと呼ばれているもの、という感覚である。AORだから好き、ではない。
スティーリー・ダンは再結成後も断続的に活動を続けていたが、フェイゲンの相棒、ウォルター・ベッカーが2017年に亡くなってしまった。フェイゲンは「ベッカーとともに作り上げてきたスティーリー・ダンの音楽を続けていく」といったことをコメントしている。それはベッカーに対する賛辞であり、感謝であり、自身に対しての覚悟でもあるのだろう。
さて「The Nightfly」、これだけの完成度のアルバムなので、それを語ったり分析したりする記事は当時から多かったし、現在でもプロアマ問わずブログで詳細に触れているものも目にする。その極みが冨田ラボが著した2014年の「ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法」だろう。発売当初から実に気になっていたのだが、まだ読めずにいる。読むのが怖いし、読んでしまうのが勿体無いという気持ちが強く、手を出せずにいる。
冨田ラボは日本のドナルド・フェイゲンだ。彼の音楽を聴いていても唸るところ多く、フェイゲンを彷彿させるような曲もある。そんな彼が分析する「The Nightfly」だ。相当細かい部分まできちんと精査、分析しているのだろう。やはり読まないわけにはいかない。