ROCK、POPの名盤アワー

~ALBUMで堪能したい洋盤、邦盤、極めつき音楽遺産~

#006『BLUE』RCサクセション(1981)

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あったはずのLPが見当たらない、どこに行ったんだ! 見つけたら撮影して差し替えます。それまでは拝借したジャケ写で。

 

『ブルー』RCサクセション

 

sideA

1. ロックン・ロール・ショー

2. Johnny Blue

3. 多摩蘭坂

4. ガ・ガ・ガ・ガ・ガ

sideB

5. まぼろし

6. チャンスは今夜

7. よそ者

8. あの娘のレター

 

[RC SUCCESSION]

忌野清志郎 : ボーカル、ギター

仲井戸麗市 : ギター、ボーカル

小林和生 : ベース、コーラス

新井田耕造 : ドラムス

G2 : キーボード

 

[BLUE DAY HORNS]

梅津和時 : アルトサックス

片山広明 : テナーサックス

安田伸二 : トランペット

佐藤春樹 : トロンボーン

板谷博 : トロンボーン

 

Produced by RC SUCCESSION

 

 

 

 

人間関係の難しさを実感しはじめた年頃に染みたアルバム

 

 この項を書きはじめた今日は5月2日。忌野清志郎の命日である。しかも今年は十三回忌だ。私の父親が亡くなったのと同じ、2009年だった。その日、わが町はどんよりと曇っていたと記憶している。ソファでウトウトしていると、つけっぱなしのテレビのニュースから漏れ聞こえた逝去の報にバチっと目が覚めた。そしてしばらく微動だにできなかった。

 RCを初めて耳にしたのは中学1年、ラジオから流れてきた「トランジスタ・ラジオ」。このシングルだか、収録されているアルバム『Please』だったか、ライブの告知かは覚えていないが、この曲を流したラジオCMも何度も聞いた。「おー授業をサボって、陽のあたる場所にいたんだよ」の冒頭歌詞が頭にこびりついた。

 だがRCの名前もそのいでたちもそのとき既に知っていた。彼らのムーブメントを伝えるメディアは当時にしても少なくなかった。まだスレてない中1に、清志郎のメイクと衣装は衝撃的だった。当時はこれに拒否反応を起こした人が少なくなかったと思う。私もスムーズに受け入れられたわけではなかったが、でもその音を聴いてちょっと見方が変わった。

 中2になってほどなく『EPLP』というベスト盤が出て、これは必聴と思ったが、買おうという気持ちにもならない。中坊にとってLPは高額商品で、「これこそは」と吟味に吟味を重ねて年に2~3枚買えれば御の字、くらいな感じだ。

 だがこのLPを買ってもらったという友だちがいた。頼み込んでテープを渡して録音してもらったのだった。

 ギンギンで派手派手でうるさいロックンロール、のような扱いを受けていたRCだったが、実際に聴いているとどうもそれだけではない。でもそれが何だかが説明できない、というのが当時の私。少しあと、音楽的知識が増えていった頃に「なるほど」と納得する。清志郎のベースにソウル・ミュージックやR&Bが大きく住みついていたからだ。ソウルという音楽ジャンルがあることは知っていたが、それに対する深い理解など当時はなかったのだ。けれども、不平不満をただまくしたてるだけの未熟な音楽ではなく、根太いルーツの元に生み出された曲たちなのだと漠然と思ったりしていた。

 いや、前書きが長くなった。RCに関しては、清志郎に関してはそのときどきで多くの衝撃や示唆を受け、言及したいことが多いのだが、ここは名盤に絞っていかねば。

 新体制RCの挨拶がわりの1枚であるライブ・アルバム、『RHAPSODY』を必聴アルバムとして挙げる方が多いと思う。頷ける。これも名盤であり、日本のロック史における革命的1枚であることは間違いない。だが、極私的がモットーのこの「名盤アワー」。外せないアルバムの多いRCの作品群から選んだのは1981年11月に発売された『BLUE』である。

『RHAPSODY』以降、破竹の勢いで日本の音楽界を席巻したRCは先にも触れたオリジナル・アルバムである『Please』、新体制でのシングル集である『EPLP』と短いインターバルで立て続けにアルバムをリリースしていた。

『Please』にも佳曲が揃っているのだが、あまりグッとこなかった。何故か。それが今回この項を書くにあたって資料を探っていてわかったことがあった。どうやらエンジニアリングの問題らしい。そう言われると腑に落ちる部分もある。ロック本来のインパクトや高揚感が『Please』では殺がれているという印象は、そこにあったのかもしれない。それはRCのメンバーも感じていたらしく、そのため『BLUE』では「一発録り」でのレコーディングを行うことによって、勢いやノリを封じ込めようとしたという。

 本作は発表から数ヶ月経ってから通して聴いた。

 ちょうど中学3年に上がる頃で、そのくらいの年齢になると人間関係やら自分の置かれている環境やらに頭を悩ませることもある。そういう不安定な精神状態の頃によく聴いた。だから内省的な曲により強く反応したし、それは今でもその曲を聴けばそのときの気持ちに立ち返ることができるくらい心身に刷り込まれている。「まぼろし」だったり「よそ者」だったり。だからやはり極私的な1枚なのかも知れない。

 ほぼ一発録りで、収録された曲のほとんどが以前から既にライブで演奏されていたり、書き溜められていた曲である。その意味では『RHAPSODY』と似たような毛色のアルバムとも言えるかも知れない。異なっているのはブレイク前か後かという点か。

 ともあれ、私のミドルティーン時代の幼い負の感情をこのアルバムが封印しているわけなのである。単に「ロックンロール」と叫べない情緒を盛り込んでいる作品なのだ。それだけに、今聴いても身が捩れる。15の若き葛藤と胸苦しさが蘇ってくる。

 

 

重いビートではじまるとは思ってもいなかった

 

 軽快なロックンロール、がRCと思っていたところ、本アルバムの1曲目「ロックン・ロール・ショー」はフロアタムとバスドラの重いビートから幕を開ける。そこにチャボの歪ませた低音リフとベースが重なって、かなりヘビーなチューン。当時の私はちょっと意表をつかれてしまった。こんなに不穏な曲、こんなはじまり、これがRCかね。と身構えさえしてしまった。でも、カッコいい。そんな印象だった。

 

 おー神様、あの娘とぶっ飛んでいたい

 おーかっかっ神様、でも目を覚ませばステージの上

 役立たずの神様、ハードロックが大好き

 

 そしてこの曲からはじまる『BLUE』というアルバムは、ラストまで私を引っ張り込んでしまうのだった。

 2曲目の「Johnny Blue」はシンプルなギターのリフで上げてくれるロック・ポップチューン。原曲はチャボの前所属である「古井戸」の「飲んだくれジョニー」。清志郎とチャボの共作である。中学生の私はこの歌詞にあるロック・バンドのツアー生活というものに大いに憧れたものである。

 

 舞台袖に酒がしこたま用意され

 のんだくれジョニーが舞台へ出てく

 彼女のうたを2人のために

 ブルースをブルースを あいつは今夜もやるのさ

 

 この「ブルースを~」の部分がいい。歌詞を読んでいくと、どうもそれほど大きくないライブハウスのような箱で、酒を呑みながらステージで歌い、演奏するという感じだが、私は当時はRCそのものを投影して、日本全国旅から旅で毎晩ステージに上がる姿をイメージしていた。そういうものに私はなりたい、とこの頃は思っていた。叶わなかったけどな。

 A面の核となるのは次の「多摩蘭坂」だろう。アコギのアルペジオからはじまるバラードだが、サビから間奏へ向かって劇的な展開の曲である。最近改めて聴いてみると、その構成は意外にもレッド・ツェッペリンの「天国への階段」にちょっと似てると思った。もっともツェッペリンのほうは10分近い大作で、こちらは3分ちょっとの小曲だ。しかし、そう意識すると、そう思える。この曲もブレイクするよりもかなり以前に清志郎が書いたものである。

 

 多摩蘭坂を登り切る手前の坂の

 途中の家を借りて住んでる

 だけどどうも苦手さ こんな夜は

 

 この多摩蘭坂というのは実際にあって、清志郎が売れずにくすぶっていた一時期にこの途中のアパートに住んでいた、というのは有名な話。行政区画では国分寺市になるが、坂の下のほうは国立市、上のほうは府中市という市境が混んでいるところにある。急坂ではないが、だらだらとした傾斜の坂がいつ果てるかも知らず続いている。

 清志郎が亡くなって1ヶ月ほど経った頃、この坂を歩いた。清志郎が住んでいたあたりの坂の路地には、たくさんの花が手向けられていた。6月の暑い日だった。

 A面ラストは「ガ・ガ・ガ・ガ・ガ」。そうこのアルバム、A面4曲、B面4曲の計8曲しか入ってない。超がつくほどの多忙な時期で、曲など作っている暇がないから過去の未発表曲を引っ張り出してきてなんとか1枚にまとめたという。勢いのある間にできるだけたくさんのアルバムを発表させたかった、というのがレコード会社の目論見か。ミドルテンポのライト・ヘビーなロックといったこの曲は、ステージではなかなか映える。クレジットはG忌麗で、つまりG2と清志郎とチャボの共作。高速道路がオイラの屋根、と歌ってる。部屋も持たない日雇いの歌なのか。

 

 

B面こそが本作の本作たる所以、感傷が溢れかえってたまらんのです

 

 私の『BLUE』はB面の1、3に尽きる、と言ってもいいほどにこの2曲には多くのものが封印されている。曲順通りではなくなるが、まずはそこを言及したい。

 まずはB面1曲目の「まぼろし」の歌詞を。

 

 ぼくの理解者は 行ってしまった

 もう ずいぶんまえの 忘れそうな事さ

 あとは だれも わかってはくれない

 ずいぶん ずいぶん ずいぶん長い間

 ひとりにされています

 

 だれか友達を あたえて下さい

 何度も 裏切られたり 失望させられたままのぼくに

 そしたら ぼくの 部屋にいっしょに連れて帰る

 幾晩も 幾晩も 幾晩もの間

 枕を濡らしました

 

 ぼくの心は 傷つきやすいのさ

 ぼくは 裸足で 歩いて部屋に戻る

 だから 早く 近くに来て下さい

 いつだって いつだって 昼も夜もわからず

 まぼろしに追われています

 

 この曲もまったく売れない頃に清志郎がアパートの一室で書いたものという。「ぼくの理解者は行ってしまった」、「だれか友達をあたえて下さい」、「ぼくの心は傷つきやすいのさ」と孤独の真っ只中、先の見通しもなく、気持ちは負のスパイラルをくるくると落ち込んでいくかの如く。実際は自殺した友人のことを歌ったという。

 この清志郎の当時の状況を思えば、15の私の孤独感はある種ティーンエイジャー特有のセンチメンタリズムだったかもしれない。感傷主義的なナルシズムというか。しかしそれは結果であって、実際に人間関係のこじれがあって生まれる感情であるから、そこを耐えるために歌に感情移入するというのも、ひとつの効果的な方法だったのではとも思う。それが多分に詰まってるのが『BLUE』のB面なのだ。

 サウンドもまたこの詞の幅を広げてくれている。

 イントロのサックスが切ない。1番は左右に揺れるエレピと、2拍目、4拍目のハイファット。浮遊感漂うバックに清志郎の振り絞りつつも伸びるボーカル。

 2番からギターの歯切れのいいカッティング、ベース、ドラムが入る。ボーカルの裏には歌うようなサックス。間奏の狂い泣きのようなギター・ソロ。RCでのチャボのギター・ソロの中では出色と言っていい。

 3番からはタイトな8ビートのドラムとベース。エレピもコードを叩くようになる。

 どんどんと音数が多くなり、音圧をかけてくる。はじまりはゆっくりと歩いていたのが、最後は全速力。サビらしいサビもない、いわばカノンのような構成の曲だ。

 この曲の一番の肝は、「行ってしまった」の部分のコード、GM7。キーはD。そこにGではなくGM7としたことで、行き場のない浮遊した空気を醸している。清志郎はただのパフォーマーでもロックンローラーでもソウルマンというだけではなく、ソングライターであることを証明している。不遇時代の名作、「ヒッピーに捧ぐ」にも似た虚無感を表現している。

 そしてB-3の「よそ者」。哀愁漂うアルペジオにぶっといギターの低音リフが入ってくる。3連のロッカ・バラードなのだが、そこはやはり清志郎節でソウルフルなのだ。

 

 俺たちよそ者 何処に行ったって

 だからさ そんなに

 親切にしてくれなくてもいいのに

 

 いつの日 どこかに 落ち着くことができる

 そんな夢を見ながら

 今夜ここで 踊るだけでいいのに

 

 踊れば揺れる 胸に降る

 かなしさ どのくらいかなんて

 おいら知らない けむる港町

 

 最後のバラードまで そばにいてくれる

 ほんとさ それだけで 感謝してる

 oh baby 心から

 

 この曲に関しては雑誌「bridge」の1995年のインタビューで「歌謡曲の作詞の本を持って」いて、それを見ながら書いたと言っている。それは「けむる港町」であり、「踊れば揺れる」であり、「最後のバラードまで」あたりではないかと、うろ覚えの記憶の中からも自身がそう答えている。

 なるほど。しかしそれでいてきちんと清志郎節。ブルースになってる。

 さらに清志郎は、シャレで歌謡曲風に作った歌詞だったから、最初はあまり好きではなかったという。でもチャボやリンコはとても気に入っていたと。

 当時のチャボのアパートで清志郎とチャボと古井戸のオリジナル・メンバーである奥津光洋の3人で作った曲。

 おそらく15の私にとってこの歌詞は背伸びしてわかる範囲の世界でありつつ、切ないロッカ・バラードだったということに当時惹かれたのではないか、と考えている。その歌詞が「歌謡曲」のように書かれたことも、分かりやすさと背伸びのしやすさの一因だったのかもしれない。

 とにかくこの2曲は本当によく聴いた。聴きながらひたすらインナー・ワールドへと渦巻かれていったのだった。

 B面2曲目はチャボがRCで初めてリード・ボーカルを取る「チャンスは今夜」。もうこれは王道中の王道ロックン・ロール。ほぼチャック・ベリー。それだけにライブでは必ず盛り上がるナンバーだ。清志郎とチャボの共作で、歌詞はなんてことない、バンド・マンたちの夜の悪さの話。でも「チェック、チェック、チェック、トゥナイト、ツアーは続くチャンスは今夜~」は理屈なしに腰が動く。

 アルバム最後は「あの娘のレター」。ミドル・テンポのR&B。「シャラララ、レター、シャラララ、ウォウウォー」というイントロに身体が揺らぐ。この歌詞カードには一部墨で潰された伏せ字があり、レコードではノイズで消される。「ポリ公」という表現が差別用語でとのこと。ノイズ含みのままレコード化されてるってことにも、当時は新鮮な衝撃を受けてた。今でもそんなのはないか。この曲も清志郎とチャボの共作。

 で、この曲、当時サントリーのトロピカル・ドリンクのCMに使われていたのだけれど、これがまったく別物メロディ、別物アレンジ。「退屈なこの国にエアメイルが届く」という冒頭部分だけがCMで使われていたと記憶するが、本作に収録されたこの曲を最初に聞いたときは「エッ」と驚いた。全然違う。私はCMのメロディと雰囲気が気に入っていたので、それを期待して聴いていたのだから、ちょっとガックリしたもんだ。

 でも本作バージョンも聴きこむうちに染みてきた。大人なR&Bなのである。CMバージョンは結局未だ発表されておらず、ホント「まぼろし」の1曲なのです。

 

 

誠実で正直だからこその破天荒、「これでいいのだ」と思わせてくれた

 

 1980年代前半のRCは言葉通り日本において「King of Rock」だった。とりわけそのステージ・パフォーマンスのかつてないド派手さと、コール・アンド・レスポンスの一体感はそれまでのジャパニーズ・ロックのフォーマットを大きく書き換えたと言える。さらにそれは未だ唯一無二。清志郎は自分のやりたい通りにやってきただけ、と言うであろうが、それがなかなかできないのが世間というもの。

 やりたいことをやる、という姿勢の、その象徴的な「事件」はやはり1988年のアルバム「Covers」の発売中止だった。事件を知らない世代に簡単に説明すると、当時RCは洋楽の名曲に清志郎の訳詞をつけて1枚のアルバムを製作した。だが、その訳は厳密には訳ではなく、清志郎の「妙訳」であり、それらがことごとく反核、反原発、ポリティカル・メッセージだったので、当時所属のレコード会社、東芝EMIが「素晴らしすぎて出せません」と新聞広告を打って発売中止となった。東芝原発事業も手がけている。そこで清志郎はこのアルバムを古巣であるキティ・レコードに持ち込み、発表した。

 思えばここがすべての大きな転機となった。

「Covers」について清志郎以外のメンバーは、その政治色にあまりいい顔をしていなかったという。ほどなくドラムの新井田耕造とG2が脱退。RC自体も2年後に解散。

 清志郎もそのような活動はRCではできないと踏んだのか、覆面バンド・タイマーズを結成して、言いたいことをストレートに歌詞に反映して活動をはじめた。

 だが、そうした活動とは別のベクトルで忌野清志郎という人間は世間に浸透していった。「雨上がりの夜空に」の頃の新生RCに眉をひそめた大人たちも、それから10年経ったその頃には完全に受け入れていた。キワモノでもイロモノでもなく、アーティストとして社会認知されたのである。

 にもかかわらず、清志郎はそんなことはどうでもいいかの如く、自分の気持ちの赴くままにロックを享受し続けていった。「パパの歌」があって、「君が代」のロックンロールもある。はたまたロード・バイクで遠乗りする。それが忌野清志郎。誠実で正直、すぎる。

 だからいつも刺激的な存在だった。それだけにガン発覚時の「新しいブルース」の言葉が似合いすぎた。

 RCが絶頂だった1980年代前半を、私は中学高校と過ごしたわけである。その頃は1年1年が新しかった。今は10年前の出来事も流行りも最近のことと感じる。つまり多感で吸収ばっかりしていた中高の頃に聴いたアルバムには、それぞれに確固たる思いや熱や諦めや、なんやかやが詰まっている。

『RHAPSODY』から『Please』、『BLUE』、『BEAT POPS』、『OK』、『FEEL SO BAD』、『ハートのエース』。これらのアルバムを聞けば何年生の時期で、こんなことを考えてたということが即座に思い浮かぶ。教室の風景や行事に至るまで。

 いわばRCは私の「Teenage Blues」なのであります。