ROCK、POPの名盤アワー

~ALBUMで堪能したい洋盤、邦盤、極めつき音楽遺産~

#013『PRIVATE EYES』DARYL HALL & JOHN OATES(1981)

 

 

これぞ80年代傑作アルバム・ジャケットに数えられる一枚だ

 

『プライベート・アイズ』ダリル・ホール & ジョン・オーツ


sideA

1. Private Eyes(プライベート・アイズ)

2. Looking for a Good Sign(グッド・サイン)

3. I Can’t Go for That(アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット)

4. Mano a Mano(マノ・ア・マノ)

5. Did it in a Minute(ディッド・イット・イン・ア・ミニット)

sideB

1. Head Above Water(ヘッド・アバブ・ウォーター)

2. Tell Me What You Want(テル・ミー・ホワット・ユー・ウォント)

3. Friday Let Me Down(フライディ・レット・ミー・ダウン)

4. Unguarded Minute(アンガーデッド・ミニット)

5. Your Imagination(ユア・イマジネーション)

6. Some Men(サム・メン)

 

 

[Recording Musician]

Daryl Hall : Vocals, Keyboards, Synthesizers, Mandar guitar, Mandola, Mandocella, Timbales, Compurhythm

John Oates : Vocals, Guitar, Mando guitar, Keyboards

 

G.E.Smith : Lead guitar, Vindaloo solos

Jerry Marrotta : Drums

John Siegler : Bass

Charlie De Chant : Saxophone

Larry Fast : Synthesizer, Programming

Mickey Curry : Drums on 〝Head Above Water〟, 〝Looking for a Good Sign〟,〝Private Eyes〟, 〝Mano a Mano〟

Chuck Burgi : Drums on 〝Your Imagination〟

Jeff Southworth : Guitar solo on 〝Unguarded Minute〟

Ray Gomez : Lead guitar on 〝Mano a Mano〟

Jimmy Maelen : Percussion

John Jarrett : Background on 〝Mano a Mano〟

 

Produced by Daryl Hall & John Oates

 

 

 

 

初めて見た外タレの来日公演がホール&オーツだった

 

 洋楽を意識して聴きはじめたのは中学に入ってからだった、1980年。御多分に洩れずビートルズ、アバ、ビリー・ジョエルあたりだったと思う。

 主にFMラジオから流れる曲を耳にして、気に入ったものをFM誌でいつまたオンエアされるかを確認して、エア・チェックするという感じだった。

 前にも触れたが、FEN(Far East Network)もよく聴いた。言ってることはほとんどわからなかったけど、当時は一番早くアメリカの音楽シーンに触れることができて、ダラダラ聴きしてた。

 そんな日々を送っていた中学時代。ある日、ラジオから流れてきたのがホール&オーツの「Kiss on My List」だった。オッ、とすぐに耳が反応した。常にバックで叩かれるエレピのリズムと、独特のハーモニー、ダリル・ホールの声に一瞬にして魅せられた。のちに知ることになるが、彼らは「ブルー・アイド・ソウル」と呼ばれるほどブラック・テイスト溢れる音楽性で、そんな音楽的素養がまだない私はそれでもそのあたりの匂いを感じ取ったのだろう。痺れた。

 ちなみにこの曲は彼ら初のゴールド・ディスク(100万枚セールス)受賞曲だ。

 そのあとに発表されたのが今回紹介するアルバム、『PRIVATE EYES』。このアルバムが発表された頃に、当時の洋楽ファンが毎週欠かさずに見ていた「ベスト・ヒット・USA」がテレビ朝日ではじまったのだ。

 小林克也が流れるような英語で曲紹介し、アーティストたちが積極的に作りはじめたプロモーション・ビデオ(今で言うMVのことを当時はプロモーション・ビデオと言っていたのです)をチャート形式で流す番組だ。当時、洋楽のビデオを見られる番組はこれしかなかったから、土曜の夜は結構上気してテレビの前に座ったものである。同世代の人にはわかるはず。

 1982年、この番組でよく流れていたのがホール&オーツの「Private Eyes」だった。探偵に扮したホールとオーツとバンドが、ちょっと上にセットされたカメラを見上げながら歌い(よくよく考えれば、これは監視カメラだ)、演奏する。そう、虫眼鏡を持ってたな、ホール。探偵だからか。今思うとちょっとおかしい。しかしヘビー・ローテーションだったくらい、売れていたのだ。

 1982年は中学3年で、高校受験を控えていたわけなのだが、朧ろな記憶には小林克也の顔と声ばかり。そしてその秋、はからずもホール&オーツの来日公演を見るという僥倖が待っていたのだ。

 1982年11月3日、NHKホール。これが私の初の外タレのライブ体験だった。外タレって言い方は今はしないのか。外国人タレントを略して外タレだったのだと思うが、そんなことは考えるまでもなく海外のアーティストは外タレだった時代だ。

 何故そんなことになったのか。自分の小遣いで海外アーティストのライブを見られるほどの余裕はない。見たいライブは星の数ほどあったが、高校に入ってアルバイトしてでないと無理。

 そんなもどかしい思いをしていた私に、神は微笑んでくれたのか。

 ライブの前日である11月2日に叔母から電話があった。

 明日、ホール&オーツのライブがあるんだけど、行かない?

 えっ、なんで。一緒に行く予定だった叔父が、どうしても外せない仕事ができてしまい、行けないということだった。それで白羽の矢だ。

 私の母の弟がその叔父で、その奥さんが叔母だ。年は20歳くらいしか離れていないから、当時まだ35歳くらいか。外タレのライブにだってバリバリに行きたい歳だ。

 で、中学になってから洋楽を聴きはじめた15歳の甥に声がかかった。東京周辺に住んでいる親戚でホール&オーツを聴いている人はおそらく私だけだったのだろう。いや、きっと叔母は自分の友だちだって誘えた筈である。とすると、洋楽を聴きはじめた甥にスペシャルな体験をプレゼントしようという、親戚縁者のはからいだったのでは、と今にして思う。

 その電話を受けたあと、まさに地に足がついていないような気分だったことを覚えてる。

 いきなり、明日、ホール&オーツを見られる。

 本当はきっと、自分でチケット取って、公演日までの2~3ヶ月をドキドキしながら待つというのもいいものなのだろうが、しかしそんなことはそのときは考えてなかった。

 11月3日、NHKホールに初めて足を踏み入れ、それだけでもうピークを迎えてしまう。しかも席はステージに向かって右寄りの5列目くらいだった。ステージ上でシャウトしたら唾が飛んできそうなほどの距離だ。

 誘ってもらって嬉しかったが、しかし中3男子が叔母とペラペラ喋るはずもない。でもまあ、喋らずとも上気した私の顔を見ていれば叔母もそれで喜んでいたのではないかと思う。高まる気持ちを抑えつつほとんど黙ったまま開演を待つ。

 そして場内の灯りがバサッと落とされ、真っ暗なステージ上にメンバーが持ち場に向かっていくペンライトが動いてる。それが消えると、ほどなく大音量と眩しい光が場内に満ち溢れた。

 1曲目は「Did it in a Minute」だった。好きな曲だったのでこれまた気持ちの針が振り切れる。私の前ではピンクの派手なジャケットを着たG.E.スミスが変な体の動きをしながら味なギターを弾いていた。その左横にジョン・オーツ、さらにその横にダリル・ホール。うしろにドラムのミッキー・カーリー、ベースのT. ボーン・ウォーカー、サックスのチャーリー・デ・シャント。そう、その後迎えるホール&オーツの全盛期を支えた不動のメンバーだ。

 このバンドは本当にすごい。ホール&オーツはデュオと呼ばれるが、いやいや彼らはバンドなのだ。私は今でもそう思っている。少なくとも1980年代の中期は。

 実際、彼らのプロモーション・フィルムのほとんどにバンドのメンバーも登場する。しかもかなり大切な役割、存在として。これはダリル・ホールとジョン・オーツの彼らに対する敬意や感謝、さらには依存なども含めた信頼なのだと思う。楽曲制作は二人が担当するものの、サウンド・メイクやライブではほとんどバック・バンドという感覚なしに活動していたのではないかと思う。そしてさらにその各々のキャラクターをも、当時の彼らには絶対に必要だったのだ。だからバンドなのだ。

 その日のライブは近作3枚を中心に、彼らの代表曲を惜しげも無く次から次へと披露してくれる、大盤振る舞いの内容だった。ニュー・アルバムの『H2O』は前月にアメリカでは発売されていたが、日本でももう発売されていたか。「Maneater」と「Family Man」が演奏された。

 当然「Private eyes(パン👏)、Watching you(パンパン👏👏)」はやった。ハンド・クラッピンですね。中3の私が一番グッときたのはやはり「Wait for me」だった。イントロとアウトロのG.E.スミスのソロが聴かせた。相変わらず動きも表情も変だったが。

 彼らのルーツがソウルやR&Bであることも、若輩ながらそのステージから感じ取ることができた、大雑把にだが。

 大音量の中で心踊らされた2時間ほど。帰りは興奮して、その日のステージのことを結構話したような。

 ライブってこんなに心が揺さぶられるものなんだと初めて感じた一日だった。この日がなかったら、ライブ漬けの高校時代はなかったかもしれない。

 当時、NHK総合不定期ではあるが外タレの来日コンサートを流してくれていた(「ヤング・ミュージック・ショー」と言ったと思う)。この日のライブも放送してくれた(正確には翌11月4日の公演で、その日が最終日。何ヶ月か前にポリスもやってくれた、それも見た。確かホール&オーツのはその年末の夕方だった。暮れかかる窓の外を背景にして、テレビにかぶりつきだった)。

 で、我が家は確かこの少し前にビデオ・デッキを購入していたのだ。他の家よりは少し早かったと思う。VHSとbetaが主権争いをしていた頃だ。うちはVHSだった。

 60分のビデオ・テープを購入し、このライブは当然録画した。その後何回見たことか。今でもクローゼットのダンボールの中にあるはずだ。

 ホール&オーツは長い試行錯誤の期間を経て、ようやくビッグ・ヒットを勝ち得てスターダムにのし上がった。だが、今振り返ってみると、チャートの上位常連だった時期はそれほど長くない。1980年代前半を代表するアーティストであることに疑いはないが。

 その一番旬な時期に、私は一番多感で吸収力のある世代だったのだ。だから彼らは永遠に私のポップ・アイコンとして40年経った今でも脳裏で輝いているのだ。

 

「Private Eyes」のPVもまた、MTV時代の幕開けを印象付ける一本だった



前作よりもよりポップ・ロック色が強いサウンド

 

ブルー・アイド・ソウル」と呼ばれる彼らのサウンド。本作も随所にそれは感じられるのだが、前作『Voices』と比較すると、よりポップ・ロック色が前面に出ている。研ぎ澄まされていると言ってもいい。とそれは1曲目の「Private Eyes」が象徴する。エイト・ビートのタイトでシンプルなリズムにギターの強いリフがアクセントを作る。そこに「Kiss on My List」同様の「8分の1と4拍」目にエレピのアタックが入るという、もうこれぞホール&オーツ・サウンドの極みみたいな曲である。

 ポップ・ロック色が濃いとは言え、やはりダリル・ホールの節回しや声そのものに、まごうことなきソウル魂が吹きこぼれている。とりわけギター・ソロ後の唸り絞り上げるような声に、先人たちへの敬意を感じる。

 山下達郎氏は「長く聴き継がれるために最も必要なことは良質なアレンジ」というようなことを常々言っているが、この「Private Eyes」が未だ鮮度を失っていないのもそこにあると思う。無駄ない土台の上に鍛え上げられた音、声が迷いなく乗ってくる。それがいつまでも心地よく耳に響く。

 ’80sを代表する曲だ、ここであまりくどくどと言わなくったって、あうんの呼吸で理解していただけるだろう。

 と言いつつ、2曲目の「Looking for a Good Sign」はソウル・テイストたっぷり。彼らのルーツ・ミュージックへのオマージュとも取れるほど、コテコテのサウンドだ。ホーン・セクションと言い、バック・ボーカルと言い、これはもうブラック・ミュージックそのもの。加えてベース・ラインとシンプルなパーカッションのAメロが、なんてことないようでいて非常に味わい深いのだ。

 そして当時の自分内で最も物議を醸し出したのが、「 I Can’t Go for That」だ。今でこそ超がつくほどの名作として聴き継がれているが、当時は驚きとともに静聴したものだ。

 シンプルなリズム・ボックスの気だるいビートからはじまる。ともすればチープにも思えなくもない音。そこにベースのリフレインが重なってくる。かなり機械的な印象だった。今聴くとそうでもない。それはまだ80年代初頭の音楽手法の中で、という説明が必要となる。今の我々の耳は電子サウンドにすっかり馴染んでしまっている。しかし当時はまだシンセサイザーがポップスに取り入れられはじめてたかだか数年という時代。単調なリズム・ボックスの音がポコポコいってるだけで、「これはテクノか」と感じたのだった。

 それはさておき、その無機的とも単調とも思えるサウンドに、それでも血の通った何かを感じさせるのがこの曲の、このバンドの力量と言える。そしてそれがこの曲をモンスター化させた要因なのでは、とも思う。

 シンセの浮遊感漂うキラキラ音と、ミュートしたギターのコッコッコッコッコーッがキモだ。そしてドゥーワップ調のコーラス、サビの掛け合い。シンプルでありながら実に凝ったアレンジとなっているのだ。

「 I Can’t Go for That」を超意訳すると、「そりゃ無理だ」という感じか。そしてこのタイトルにカッコつきで続く「no can do」という言葉だが、これは文法的には間違っている、と小林克也ベストヒットUSAで言っていた。そのくだりを引用抄訳すると、この「no can do」を使いはじめたのはアメリカへの中国移民だという。わかりやすい言葉を組み合わせたchinese english、ということらしい。そのニュアンスをダリルは取り入れたかったのだと。このあたりの話は面白い。異言語文化の人にはそこまでわからないし、なかなか知ることもない。

 ちなみにこの曲は1982年1月最終週の「American Top 40」でNo.1を獲得しているのだが、同じ週にチャート・インしているのが「Waiting for a girl like you / Foreigner」(No.2)、「Centerfold / The J.geils band」(No.3)、「Physical / Olivia newton john」(No.4)、「Let’s groove / Earth,wind&fire」(No.8)と錚々たる面々、聴き継がれる名曲たちである。 

 A面4曲目はギターのハウリングからはじまるR&Bテイストの濃いロックンロール、「Mano a Mano」。ジョン・オーツがリード・ヴォーカル。そしてこの曲は本アルバムで唯一の、ジョン・オーツ一人による作詞曲のナンバーだ。

 もう一曲、B-3の「Friday Let Me Down」もジョン・オーツのリード・ヴォーカル曲なのだが、こちらは曲はジョン・オーツで、詩は彼に加えてダリルと当時のダリルの恋人であるサラ・アレンがクレジットされている。そう「Sara smile」のサラだ。彼女は作詞家として彼らのアルバムに全面参加しており、本アルバムでも実に7曲にクレジットされている。もっとも彼女一人での作詞はなく、すべてダリルやジョンも共作者として併記されている。このあたりもホール&オーツの楽曲制作の面白いところだ。

 そして気になるのがこの「Mano a Mano」という言葉だ。これはスペイン語である。英語で言うところの「Hand to Hand」、つまり「手と手」あるいはもっと意訳して「手と手を取り合って」というのが本来の意味。だが実際には「1対1」とか「直接対決」といった意味で使われることが多いと言う、慣用的に。ではそれを英語で言うとどうなるかと言うと、これが「One on One」なのである。次の彼らのアルバム『H2O』にこのタイトルの曲が入ってますね。大ヒットもした。面白い符号だ。もちろん彼らはそれを承知でそんなタイトルをつけてニヤリと微笑んでいたのだろうけど、これもまた異言語文化の人には見えてこないニュアンスと言える。

 A面最後は「Did it in a Minute」。「Private Eyes」と同じく「8分の1と4拍」目にエレピのアタックが入る正調ホール&オーツのポップ・ロック。1982年のライブのオープニングを飾った曲だけに、実に軽快で乗せてくる。ダリル・ホールの立って弾くキーボード姿がカッコよかった。

 この曲は比較的クセもなく、アクもなく、誰にでも受け入れられやすい曲調なので、中3当時の私も「Private Eyes」の次に耳に馴染んだ曲だった。コーラスや掛け合いやスキャットや、とにかく声があらゆる手法で音空間を舞う彼らの代表作はここで半分終了。

 

 

B面後半の侘び寂びが染みる、そこに彼らの本領がある

 

 B面最初はノリのいいストレートなロック「Head Above Water」。歌詞は海の恐怖と戦う船乗りの歌で、そのわりにはアップな曲調なので、決してシリアスな雰囲気は感じさせない。キラキラした印象。

 B面のこの曲から3曲目までは、ドラムの音がかなり抜けているように聞こえる。それが1982年当時は鮮度の高い太鼓の処理方法だったのだろう。だが、このわずか2~3年後に、New YorkのPower Station Studioで生まれるドラムの音が世界を席巻した。いわゆる「Power Station Sound」と呼ばれるもので、さらに太鼓のアタック音を強めながら空間処理を施し、ほどほどのところで残響音をカットするというもので、もはやリズム楽器にとどまらない存在感を誇った。

 代表的なのはそのスタジオ名をそのままバンド名にした「The Power Station」で、ボーカルはロバート・パーマーDuran Duranのアンディー・テイラーがギター、同じくジョン・テイラーがベース、ドラムにトニー・トンプソンというメンバーで、プロデューサーはChicのバーナード・エドワーズ。ドラムの音だけで伴奏になるっていうくらい過剰に作り込んでいた。

 このPower Station Studioで生まれた名盤は数知れない。デヴィッド・ボウイブルース・スプリングスティーン、マドンナ、ダイアー・ストレイツetc。

 その後このスタジオは「Avatar Studio」と改称している。

 日本にも「日清パワーステーション」という名のライブ・スペースが1980年代後半から10年くらい存在してた。そのくらい時代を切り取る文化言語となったのだ、「Power Station」。

 ホール&オーツはこのスタジオでのレコーディングはないが、同時代のNew York Soundの一翼を担っていたのは間違いなく、方向性は一緒だったように思う。それがこのB面の3曲には現れはじめており、その極みは1984年発売のアルバム『Big Bam Boom』だろう。このアルバムか、『PRIVATE EYES』かで結構迷ったのだ、ここで取り上げる作品を。初期衝動ということが最後の決め手になったのだが、

 次が「Tell Me What You Want」。アップ・テンポだがソウル色の強いロック。途中、ベース・ラインが中南米系のテイストを帯びる部分がいい。アレンジが初期のポリス風にも思える。とは言え、やはりホール&オーツのロックンソウルの曲である。

 B面3曲目もまた気持ちが上がるテンポのロック「Friday Let Me Down」、ジョン・オーツのリード・トラックだ。だがタイトルをよく見ると、「金曜日は落ち込む」といった意味だ。普通の感覚だと金曜日は一番ハイになるはずなのだが。サウンドはCDのライナー・ノーツでも触れていたが、チープ・トリック風ではある。

 ここまでの3曲の歌詞は、どれもスカッと気持ちのいいものではない。なんとなくわだかまりまある、少し重い気分を感じさせる内容だ。サウンドはどれもいいノリなのだが。

 そしてここからの3曲が、本作での私的にとても重要な3曲、思い入れの大きな3曲なのである。

 B面4曲目が「Unguarded Minute」。マイナー調、ミドル・テンポの佳曲で、これも十八番の「8分の1と4拍」に拍に強いアクセント。それ故、ホール&オーツっぽいとも取れるが、いやそればかりとも言えない。これはごく個人的な感覚なのだが、この曲には日本の湿っぽさを感じさせるのだ。乾いた土地では生まれない独特の多層の感情。それこそ侘び寂び的な趣きがふんだんに漂っているといったような。

 本アルバム内ではとりわけ地味な部類の曲と言えるのだろうが、しかし聴くたびに体のうちからもぞもぞといろんな感覚が湧き出してくる。私にとってはそんな曲で、もはやこの曲なしに『PRIVATE EYES』は語れない、といった重要なポジションとなっているのだ。

「Unguarded Minute」は「ガードしていない瞬間」、訳詩では「うっかりしてる間に」とある。そしてそう歌ったあとにバック・コーラスが「watch out」と囁く。これは「Private Eyes」の「watching you, watching you, watching you」を受けているとも取れる。このあたりがアルバムとして聞いて「オッ」とほくそ笑むことができる部分であり、楽しいのだ。

 そして次が「Your Imagination」。一聴すると「I Can’t Go for That」同様の初期テクノ風に感じられるのだが、それはシンセのメロディやベース・ラインが比較的単調にリフレインしていることからそんな印象を受けるのだ。

 とは言え、万人に好まれるような曲ではない。ポップな部分もなく、劇的な展開もない。機械的に演奏が続いていく中でダリルのシャウトが響き、デシャントのサックスが伸びる。それがクセになる。確かに当時はそれほどの印象を持たなかったこの曲、しかし10年して、20年してアルバムを聴き返すたびに、この曲の魔力にがんじがらめにされていった。そう、魔の力なのだ。

 21世紀になって、Youtubeなどで昔の映像を簡単に発掘できるようになって、この曲のPVを見たのだった。当然当時も見ていたはずだが、ほとんど覚えていない。しかし改めて、淡々としつつもソウルのエキスを含んだ6人の立ち居や仕草、演奏に「こりゃ本物だわ」と脱帽したものだった。

 彼らもこの曲は好きだったのだろう、シングル・カットしているのだ。最高位は全米33位。売れるとは思えないよ、通好みすぎる。でも、そういうところが好きだ、彼らの。

 最後はキレのいいリズムでいきなりはじまる「Some Men」。この曲はかっこよかった。本アルバムにしても、次の『H2O』にしても、シングル・カットしていない曲に相当な名曲が潜んでいる。チャートを賑わす曲が「表」なら、これらは「裏」だ。ホール&オーツの「表」だけを見て評価してはいけない。「裏」にこそその本領が現れていると言っては、言い過ぎか。

 歌詞は「いろんな人間がいていいんだよ、それで君はどんな人間なんだい」と言ったような示唆に富む内容。

 間奏から後半にかけてのG.E.スミスのギターが疾走する。バンドもどんどんハイになっていく。聴くほうも高揚感は絶頂に達する。そして煽るだけ煽ってフェイド・アウトしていくのだ。ずるい。盤をひっくり返して、また一から聴きたくなってしまう。

 本作はバンドとしての形がほぼまとまってきた時期の勢いある1枚なのだ。

 

 

やたらクセのあるメンバーたちのことについても知っておきたい

 

技術もキャラも最強の6人、こんなバンドはもう出ないかも

 

 本作から『Big Bam Boom』までの3枚のアルバムがこのバンド、パーマネントなメンバーで製作されており、これこそが音もキャラもDARYL HALL & JOHN OATESなのだと私は思っている。そのくらい濃く、強く、揺るぎなく、至高のメンバーであり、バンドなのだ。

 だから、彼らについてももう少し触れておきたい。

 まずはギタリストで、もっとも強烈な存在感のG.E.スミス。フルで記すとジョージ・エドワード・スミス。現在70歳。ホール&オーツには1979~1985年の間、サポート・メンバーとして在籍。父はレバノン人で、幼少時はスミスではなくハダッドという姓。

 中学時代に彼を見たときは、ちょっとクセのある、いや大いにクセだらけのギタリストだと思った。きっとみんなそう。その表情も動きもロック・バンドのギタリストという感じではなかった。でもやはりこのバンドには絶対に必要で、のちにホール&オーツが再結成して、ギターが彼でなかったときの違和感ときたら相当なものだった。

 ホール&オーツ後の彼は、アメリカの人気TVコメディ・ショーである「サタデー・ナイト・ライブ」にバンド・リーダーとして出演。この番組は1975年から現在まで断続的に放送されているお化け番組で、生放送らしい。

 レコーディングに参加したアーティストはデヴィッド・ボウイミック・ジャガー、ボデ・ディラン、ティナ・ターナー等々と大物アーティストだらけだ。

 とりわけボブ・ディランの80年代後半のツアー、「ネバー・エンディング・ツアー」に参加し、1992年のボデ・ディランの30周年トリビュート・コンサートでは音楽監督とギターという大役を仰せつかった。このライブは当時テレビで見た。

 最初は「おっ、G.E.スミスがいるじゃん」と思ってちょっと気分が上がった程度だったのだが、見ているうちに舞台上でバンドを仕切っているのがどうやら彼のようだ、と気づいて「えっ、ホントかね、バンマスかね」とぶっ飛んだ。しかしそうだ、コンダクターだ。それが個人的にとても嬉しかった。ディランの記念ライブを仕切れるとは、と。

 その後も、こうした記念ライブやアワード系の音楽監督などの仕事を結構こなしている。

 今回調べていて面白かったのは、2012年に共和党の全国大会でパフォーマンスしているということ。これに対して彼は「自分は共和党員ではないし、政治的な人間でもない。単に音楽家としてのひとつの仕事」と言っているが、2016年の同大会でも演奏している。このときの候補者はトランプ。

 とは言え、私にとってかなり愛着のあるギタリストなのだ。

 ベースはトム・T-Bone・ウォーク。ひょろりとした容姿にハンチングというこれまた個性的な雰囲気で、帽子を取ると薄毛にベビーフェイス。憎まれる要素などなし。

 ニューヨーク生まれで、12歳のときには州のアコーディオンのチャンピオンになったという経歴を持つ。ベースはポール・マッカートニーに影響を受け、ニューヨークのバーで演奏している頃にG.E.スミスと出会う。その後、スタジオ・ミュージシャンのような仕事をするようになり、1981年にホール&オーツのバンドのオーディションを受けた。そして全盛期のバンドメンバーとして多くのヒット曲に参加する。

 ホール&オーツ活動休止後はG.E.スミス同様「サタデー・ナイト・ライブ・バンド」のメンバーとなり、さらにカーリー・サイモンビリー・ジョエルなどの活動に参加。中でもエルヴィス・コステロの4枚のアルバム製作に携わったことは、大きなキャリアとなっている。

 ホール&オーツ再結成後もベースとして参加。後半生の仕事としては、ダリル・ホールがネット配信という形で2007年に開始した「Live from Daryl’s House」に主要メンバーとして顔を見せてくれたのが印象に残っている。

 この番組はのちにTV番組にもなり、今でもネットで見ることができる。基本的には毎回ダリルの自宅にゲストを招いてセッションしたり、料理したり、他愛ない話をするという内容なのだが、そのゲストの選定がいかにもダリルらしいのだ。ニック・ロウトッド・ラングレン、デイブ・スチュワート(ユーリズミックス)、ブッカー・T・ジョーンズ、ジョー・ウォルシュイーグルス)等々。

 このプログラムでは、T-Bone・ウォークがかなり重要なポジションにいたことは、見ていてすぐにわかった。ダリルの彼に対する信用の度合いは、それは相当なものだなと感じた。T-Bone・ウォークがいるから、ダリルも肩肘張ることなく楽しめているようだった。

 だが、T-Bone・ウォークは2010年2月28日、58歳という若さで心筋梗塞により亡くなってしまった。先の「Live from Daryl’s House」でも追悼プログラムが組まれた。

 

「Live from Daryl's House」でのDarylとT-Bone

 

 サックスやキーボードを担っていたのは、G.E.スミスに負けずとも劣らない曲者、チャールズ・デチャント。ドイツとフランスの血を汲んでいる。全盛期メンバーの中ではもっとも古く、1976年からホール&オーツのバンドに加入した。

 ステージの後方に彼がいるだけで、何となく力が抜けたもんだ。G.E.スミスもだが。ダリルみたいなかっこいいのがずらりと並んでいたら、全然違う印象のバンドだっただろう。ジョン・オーツも個性的な風貌だし、やはりこのバンドは唯一無二だ。

 デチャントはホール&オーツのこのバンドを皮切りに、ミック・ジャガービリー・ジョエルティナ・ターナーテンプテーションズなどの活動にも参加している。

 また、T-Bone・ウォークとともに「Live from Daryl’s House」にもしばしば参加していた。再結成後のホール&オーツの活動にもメンバーとして名を連ねている。

 そして、このバンドの中では一番普通に見えるのがドラムのミッキー・カーリー。

 コネチカット州出身の彼は、地元でバンド活動をしたのち、ニューヨークに出てきてスタジオ・ミュージシャンとして仕事をはじめる。並行して参加したバンドのマネージメントを務めていた人が、ホール&オーツのマメージメントも行っていたことから、この『PRIVATE EYES』というアルバムのレコーディングに参加しないかと誘われ、以来1986年までバンド・メンバーとして活動する。

 このホール&オーツ時代にプロデューサーのボブ・クリアマウンテンに出会い、ブライアン・アダムスのレコーディングに誘われる。これが彼にとっては良縁だった。以降、現在までブライアン・アダムスのほぼすべてのアルバム、ツアーに参加している。

 ちなみに、彼のドラム・セットはヤマハだ。

 ダリル・ホールとジョン・オーツについては長くなるので割愛。

 ひとつ触れておくとしたら、ダリルはドイツ系アメリカ人、ジョンはスペイン、アイルランド、イタリアの血を引いている。メンバーも含めて、実にいろいろな国の血が結集したバンドであり、まさにニューヨークのメルディング・ポットを体現しているかのような音楽集団なのだ。

 そんな彼らが名実ともにビッグ・ネームとして確固たる地位を得たアルバムがこの『PRIVATE EYES』だったと言えよう。いまだに時折聴いては、唸る。

 

 

 

#012『LIVE ’73』よしだたくろう(1973)

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はにかんだような表情を見せるレコード・ジャケットは珍しいのでは

 

『LIVE ’73』よしだたくろう

sideA

1. 春だったね ’73

2. マークII ’73

3. 君去りし後

4. 君が好き

5. 都万の秋

6. むなしさだけがあった

7. 落陽

sideB

1. 雨が空から降れば

2. こうき心 ’73

3. 野の仏

4. 晩餐

5. ひらひら

6. 望みを捨てろ

 

[Musicians]

よしだたくろう : Vocal, E.guitar, Ac.guitar

石川鷹彦 : Ac.guitar, Banjo, Dobro, Flat mandorin

田中清司 : Drums

岡澤章 : Bass

高中正義 : E.guitar

常富喜雄 : E.guitar

栗林稔 : E.piano

松任谷正隆 : Hammond organ

田口清 : Ac.guitar

内山修 : Percussions

ウイルビーズ : Back ground vocals

村岡健、羽鳥幸次、村田文治、佐野健一、新井英治 : Brass section

新音楽協会 : Strings section

 

Produced by 吉田拓郎瀬尾一三

 

 

 

吉田拓郎はフォーク? いやファンクでR&Bなのです

 

 いや、秋から年末にかけては毎年多忙で、それはありがたいことなのです。だけど、当然趣味の時間は減る。ブログに費やす時間も取れなくなるのは、まあ致し方なし。で、その後もペースが戻らず、半年以上も放っておいてしまった。ひと段落して、書きかけのを仕上げようと。なんとなく書きはじめていて、そのままになっていたのは吉田拓郎。我が師のひとりと呼べる人。

 小学生時代、70年代後半。当然、吉田拓郎の名は知っていた。子供の雑誌でも名前が出てくるし、ラジオでも流れていた。「結婚しようよ」や「旅の宿」、「今日までそして明日から」、さらには「人間なんて」という曲を歌っていることは、情報としてはやたら目にし、耳にしていた。そういうすごい歌い手がいるんだな、という認識。でもテレビでは見ないし、謎の大物。

 リアル・タイムで聴いたのは1980年、中1のとき。「元気です」という曲だった。

 宮崎美子という九州の大学生が、木陰で水着に着替えるというただそれだけのCM、ミノルタのカメラの。「今の君はピカピカに光って」という曲をバックにブラウン管に映し出された15秒は、世間を釘付けにした。

 この曲は70年代初頭に「若き哲学者」とまで呼ばれた斉藤哲夫が歌っていたのだが、本人が作った曲ではなく、そういった曲がCMソングに使用され、ましてや水着の女の子のバックで流れ、そしてヒットしてしまったことは不本意だったという。

 拓郎も哲学者・斉藤哲夫の曲を弾き語りでカバーしている。

 この宮崎美子が主演した最初のドラマがいわゆる「昼帯ドラマ」で製作され、その主題歌が「元気です」だったのだ。普段は学校行ってるから当然見てないのだが、午前授業だったりしたときに何度か見た。それよりもラジオでよく流れていた。切なくも前向きで軽快なフォーク・ロックで、イントロのツイン・ギターが耳に残った。

 当時、フォークソングの譜面や楽譜を載せた小冊子が付録の雑誌があった。ギター・コードがついた歌本。中学時代は「新譜ジャーナル」や「GB」や「Guts」といったフォーク、ニューミュージック系の情報満載の雑誌で、新曲やニュー・アルバム全曲掲載とかでお目当のアーティストの曲があったりすると買っていた。ちょうどアコースティック・ギターを弾きはじめた頃だった。そこでも頻繁に拓郎の新曲が載っていた。でもまだ触手は動かなかった中学生。

 高校時代、友人の兄貴から拓郎の『アジアの片隅で』というアルバムを借りた。多少興味を持ちはじめていた。しかし非常にヘビーな内容に、のめり込むということはなかった。まだ少し時期尚早だった。

 高校3年の時が1985年で、拓郎が2度目のつま恋オールナイト・コンサートを行い、多くのアーティストが参加した大イベントだった。前記の音楽誌でも大々的にレポートされ、それをじっくりと読んだ。当時のライオン・ヘアーの拓郎が強烈な印象で焼きついた。自分の中での存在感が増していった。

 翌年くらいから、拓郎と小室等がDJのFM番組を聞くようになり、そこで流れる拓郎の曲を聴いているうちに、吸い込まれるようにその世界の中に入っていった。

 大学に入ると今までには興味のなかった多くのことに視野が広がっていった。民俗学的なことから、文学、絵画、さらには世界情勢まで。そんな中で再び聴いた『アジアの片隅で』が突き刺さった。二十歳の自分には「これだ」と思えた。以降長いこと、ほとんどバイブル的な存在となる。

 ならば紹介するのは『アジアの片隅で』なのでは、とも思うのだが、このアルバムを語るには相当に汗をかかなければならないし、精神的な強さも必要。また、いきなりこのアルバムでは読むほうがつらいのでは。そのくらいに重く、真っ向から向き合わなければ持たない作品なのだ。ということでこれは機が熟してから。拓郎の最初にチョイスしたのが『LIVE ’73』だ。

 吉田拓郎は1975年に小室等井上陽水泉谷しげると一緒に、ミュージシャンによるレコード会社「フォーライフ・レコード」を設立してから自分の名前を漢字表記に変えたが、それ以前のエレック・レコード、CBSソニー時代はひらがな表記だ。だから本作もひらがな。

 ライブ・アルバムだからそれまでの代表曲が演奏されているかと思いきや、さにあらず。この時点で既発の曲はわずかに4曲、その他は新曲とカバーで未発表。既発の曲もまったく違うアレンジで演奏されているので、オール未発表と言ってもいいくらいの新鮮さ。

 そのような形をとったのは何故か。その背景を知るには、拓郎にとっての1973年という年を少し理解しておかなければならない。

 前年の1972年に「結婚しようよ」を大ヒットさせて、一躍「フォークのプリンス」としてメディアに祭り上げられた拓郎。しかし、そもそもフォークというのは反体制的な、アンチなスタンスで歌を武器にして社会と真っ向勝負する音楽である。たとえそれがポーズだとしても。

 そんな中、「街の教会で結婚しよう」と極私的な内容を歌えば、それは純なフォーク信奉者からは反感を買うのみ。

 ここがフォークのターニング・ポイントだった。

 一般のリスナーから「結婚しようよ」は圧倒的な支持を得たのだった。

 メディアは拓郎を追い、ファンもまた拓郎のいるところへ寄せてくる。いわば「時の人」となり、当然敵も増えてくる。

 そんな中、事件が起きた。

 1973年5月、金沢公演のあとに拓郎に暴行されたと女子大生が訴えた。拓郎は逮捕され、1週間あまり拘留されたが、暴行が女子大生の虚偽ということがわかり、釈放された。

 拓郎逮捕が伝えられたとき、メディアは手のひらを返したように拓郎をバッシング。ツアーも途中でキャンセルとなり、拓郎のマスコミ不信はここに極まった。

 浮世の虚しさや無情を痛切に感じただろう。

 本作はそのような一連の成り行きから4ヶ月ほど経ってのライブなのである。

 拓郎のMCもいくらか収められているが、恨みつらみは欠片もなく、グルーヴ溢れる演奏を淡々と、ときに声を張り上げて聴衆を煽る。

 それまでに発表されてきた曲やアルバムと比べると、このライブ・アルバムでは素の拓郎を濃く感じられる、と個人的には思っている。それだけにひとつのターニング・ポイントの1枚として重要な作品なのだ。心底「我が道」というものを見出したのは、本作だったのではないかと。

 本作、クレジットもライナー・ノーツもすべて拓郎の手書きだ(おそらく)。一文認められているのだが、それを掲載したい。

 

 このライヴ・レコードが店頭に並ぶ頃には僕も一児の父親になっている筈である。この父親は、だらしないのだ。生まれてくる子供に何をしてやればよいのかという事さえ知らない。ましてや立派に育てていく自信などないのだ。否、子供はきっと自力で立ち上がるだろう。自力で大きくなっていくに違いない。西暦1973年、この狂気の一年を一体、子供はどういう風に受けとめるだろう。しかし恐らく子供にとっては、それどころではないもっと大きな数々の苦悩が待ち受けているに違いない。僕は古い船に乗り込む新しい水夫である。しかし、子供は新しい船に乗り込む新しい水夫なのだ。

 

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歌詞やタイトル、スタッフ・リスト等すべて拓郎の手書きだ(多分)



 

ホーン・セクションとストリングスの豊穣なサウンド、そこにビート

 

 高中のギターのフレーズが口火となり、すぐさまそこにホーン・セクションがかぶさり、ドラムとベースの熱いビートが唸る1曲目は「春だったね’73」。前年の記録ずくめのアルバム『元気です』収録の人気曲から本作はスタートする。

 オリジナルよりも少し早いテンポで、その疾走感がハイな気分を呼び込む。左チャンネルでは抑え気味にストリングス。右チャンネルにホーン・セクション。

 ミックスはリズム隊を前面に出し、高中のギター、松任谷のオルガンもかなり前に出ている。大編成ではあるのだが、バンドサウンドが基調となっている。

 そうは言っても、贅沢な、芳醇なサウンドである。1973年のライブ音源としては、相当に先端を行っている。グルーヴ感がものすごい。

 間髪入れずにワウの効いたギターのカッティングにストリングス、ホーンが重なってくる「マークII」。あの、暗い歌謡曲みたいな曲が、とんでもなくファンキーでブラックなサウンドで畳み掛けてくる。聴いていて震えが起こるくらい。分厚すぎるドラムとベースがズンズンくる。松任谷正隆ハモンドも切れ切れで、ハモンドっぽくないリズムで疼く。エレピも然り。これをフォークと言うのかいな。拓郎をよく知らない新世代が聴けば、サウンドの古さは感じてしまうのは否めないとしても、フォーク・ソングだとは思わないだろう。

 この2曲は既発の初期代表作なのだが、完全に換骨奪胎。頭2曲で完全にやられてしまったあとに、拓郎のボソボソとした語り口のMCが入る。一部を紹介しよう。

「東京、6月の魔の神田共立講堂以来です。その後、元気でいたでしょうか。えーっ、僕は元気です。最初、メドレー、やりました。懐かしの歌が出てきましたが、もうこんなのも滅多にやることがないだろうと思ってやってます」

 3曲目は「君去りし後」。この後、70年代の拓郎のライブでは定番となるこの曲が初収録。結構アップテンポで演奏されることが多くなるのだが、このライブ盤ではわりとミドル・テンポ。サウンド的には前2曲と同様、縦ノリのブラック・テイスト。この曲でも高中はワウを効かせたカッティング。ここまではジャムやセッションのような、ステージでの攻防のような空気感。

「君が好き」はさらにブンブンいってる。ベースが跳ねまくり、ホーンが締める。ドラムもスネアやタムやハイファットが踊るよう。こんなアップ・テンポな曲でも、左チャンネルからきっちり、薄くはあるがストリングスが鳴っている。B面の「晩餐」と並んで、本作ではもっともアグレッシブな演奏となっている。

 次は「都万の秋」。都万は壱岐島にあった村。平成の大合併でなくなってしまった。ミドル・テンポのフォーク・ロック、The Band風の楽曲。初めて聞いたときから、歌詞がグッときた。

 

 イカ釣り船が帰ると ちいさなおかみさんたちが

 エプロン姿で 防波堤を駆けてくるよ

 都万の朝は眠ったまま

 向うの浜じゃ 大きなイカが手ですくえるんだよ

 

 明日の朝は去ってしまおう

 だってぼくは怠けものの渡り鳥だから

 

 大学時代にあてもなく日本をブラブラと旅していた。その頃の郷愁もあり、今でもこの曲は突き刺さる。ある種のルーツ。

 このあとMC。

「今日はライブの録音をしておりまして。これがレコードになると思うと、怖くて怖くて。どうしよう、なるべくギター弾くまいなどと思っておりますが。田口なんか手だけ動かして、ほとんど弾いておりませんが」

 そして「むなしさだけがあった」は本作では唯一と言ってもいいほどの、諦観の濃い曲だ。B面の「ひらひら」も似たような曲に見えるが、あれはその裏に戦闘むき出しの精神が隠されている。それはあとで触れる。でもこの曲はタイトル通り、ともすれば折れてしまう寸前の打ちひしがれた気持ちが歌われている。本作は全体を通して強いアレンジの曲が並んでいる。そんな中でのこの曲は、聴いているこちらもちょっと力を抜けるほどよい時間をもらえる。

 そしてA面最後が本作の顔ともなる曲、「落陽」だ。本作の代表どころか、吉田拓郎の数多ある名曲の中でも頂点に立つ曲のひとつと言える名作だ。

 イントロは高中のバイオリン奏法。ボリューム・ペダルをコントロールしてピッキング音なしで音を出す奏法。「黒船」と一緒のやつ。ちなみに高中はこの時期すでにサディスティック・ミカ・バンドに参加しているが、2ndの『黒船』は翌年発表されるという頃。ということはすでにレコーディングに向けての楽曲準備などを行なっている時期と思われる。大ブレイク直前ということだ。

 で、その「落陽」のイントロのギターはもはやビートルズの「A hard days night」のイントロと同じで、一発音が出ただけで聴衆を瞬間沸騰させる超高濃度のエネルギーが備わっているのだ。

 かれこれ50年近く拓郎の代表作を務める「落陽」。これが初めてレコード化されて販売されたのがこの『LIVE ’73』なのだ。その後、ライブ盤やビデオ、DVDにことあるごとに収録され、年代ごとの「落陽」を楽しめるのだが、私はやはり本作収録のバージョンが一番好きだ。ちなみに「落陽」のスタジオ録音バージョンは存在しない。珍しいケースである。

 演奏のエネルギーもピークなのだが、やはりこの曲、歌詞がいい。もちろん岡本おさみである。

 

 しぼったばかりの夕陽の赤が 水平線からもれている

 苫小牧発・仙台行きフェリー

 あのじいさんときたらわざわざ見送ってくれたよ

 おまけにテープをひろってね 女の子みたいにさ

 みやげにもらったサイコロふたつ 手の中でふれば

 また振り出しに戻る旅に 陽が沈んでゆく

 

 わかってはいたが今改めて、博打打ちのじいさんの歌なのだと噛みしめる。でもやっぱりサビの部分。また振り出しに戻る旅、というところが20代の若者には響いたのだった。誰もがそうだった、あの時代。私の場合は同時代のリスナーではなかったが、15年遅れでの「戻る旅」を実感していた。原点に戻る、認めたくないが挫折する。いろんな意味で若者の内っ側に刃を突きつけたのだった。

 ギターとホーン・セクションの鬼気迫るエンディングで、A面終了です。

 

 

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当時のライブ・スタイルが垣間見える



極私的でありながら微妙な社会性も醸す歌詞が、独自の立ち位置を明示する

 

 B面最初の曲は小室等の「雨が空から降れば」。アコギがメインで、そこにパーカッション、ストリングス、そしてバンドが順に重なっていく。これがなかなか良い。オリジナルも好きだが、この拓郎バージョンも捨てがたい。歌詞はご存知の通り別役実。「しょうがない、雨の日はしょうがない」は今でも雨の日につい口ずさんでしまうほど刷り込まれている。

 そしてまたR&Bテイストでガシガシ押してくる「こうき心 ’73」。この曲は拓郎のデビュー・シングル「イメージの詩」のB面で、デビュー・アルバム『青春の詩』に収録されている弾き語りの曲なのだが、完全に別物に生まれ変わっている。重たいビートながらファンキーなホーン。ギターは泣き続け、拓郎のボーカルも地声で荒々しい。動き続けるベース・ラインが肝で、松任谷のハモンドも効いている。これはすごいブラック・ミュージックだ。このライブ・アルバムの根幹をなすサウンドの粋みたいなものだ。よく聴くと、この曲にはストリングスが入っていないようだ。

「野の仏」はオーソドックスなフォーク・ロック。エイト・ビートが心地よい。3番からストリングスもイン。間奏のハモンド・ソロがいい。

 

 この頃さっぱり釣りはだめです

 と高節くんが言う

 昔はこんな大物をと両手をひろげて

 野の仏 笑ったような 笑わぬような

 

 ぼくは野の仏になるんですよ

 と高節くんが言う

 だけどこんなにいい男ではと顎などなでながら

 野の仏 こんどはたしかに笑いました

 

 この「高節くん」というのは、南こうせつである。高節くんが釣りをしているという歌で、歌詞を読んでいるとどうも実際にそうだったのではという感じがする。わりと目立たない曲だが、いい感じでずっと心に残る曲でもある。

「晩餐」は拓郎版の「傘がない」である。歌詞を読めばわかる。社会よりも気にかかるのは自分の周囲の生活。半径数メートル。

 

 ぼくらは夕食時だった ぼくらは夕食時だった

 つけっぱなしのテレビだったから つけっぱなしのテレビだったから

 岡山で戦車が運ばれるとニュースが伝えていた

 ぼくらは食べる時間だったから

 

 シャッフルのマイナー・コードのロックでこの歌詞をがなりたててくるから、スリリングだ。だからやっぱ、この曲はロックというよりはR&B。ノリがタテにねちっこいのだよ。拓郎の声はときにうわずり、歌とも呼べない叫び、嗚咽にも聴こえる。つまりそこは葛藤なのだろう。「ぼくらの夕食時」を死守したい思いがありながらも、「戦車が運ばれる」ことに怒りや違和感や憤りを隠し応せないわだかまりが、短い一曲に迸っているのだ。淡々と歌う陽水の「傘がない」だって、表立っていないにせよその憤りは存分に感じられる。

 それを「無力感」と言ってはいけない。時代が変わっても、人間はそんな「どうにもならないこと」に打ちのめされながら生きていかなければならないのだ。

 さあ、クライマックスへと舞台が整った。ラス2。まずは「ひらひら」。

 相当に思い入れのある曲だ。この曲を初めて聴いたのは二十歳の頃か。意気盛んな時代である。吉田拓郎というアーティストの髄、のようなものを感じ取れる曲のひとつであると思っている。そしてそれは二十歳の頃の私の考えていた社会への不信感や、世間知らずの正義感とも言えるものを代弁してくれているかのようで。そして、今の私の根底に未だ小さくも脈々と息づいているものでもある。重要な一曲なのだ。

 

 喫茶店に行けば今日もまた 見出し人間の群れが

 押し合いへし合い つつきあってるよ

 恋の都合がうまくいくのは お互いの話じゃなくて

 見知らぬ他人の噂話 お笑い草だ お笑い草だ

 ああ 誰もかれもチンドン屋

 おいらもひらひら お前もひらひら

 あいつもひらひら 日本中ひらひら

 ちょいとマッチを擦りゃあ

 火傷をしそうな そんな頼りない付き合いさ

 

 アコギの静かなイントロからはじまり、ボーカルとベース、そしてリズムとストリングス、キーボードが重なっていく。印象的なのはコーラスとエレピ。拓郎はわりと淡々と歌っている。高中のエレキもベースもここは前面に出てこない。歌を支えることに徹している。

 締めるのは問題作、「望みを捨てろ」。ファンファーレ様のホーンが鳴り響き、三連のアコギの強いカッティングが続き、そして拓郎の潰れ気味の声が歌う歌詞が聴き手を突き放す。

 

 ひとりになれないひとりだから ひとりになれないひとりだから 

 妻と子だけは暖めたいから 妻と子だけは暖めたいから 

 望みを捨てろ 望みを捨てろ

 

 ひとりになれないひとりだから ひとりになれないひとりだから 

 我が家だけは守りたいから 我が家だけは守りたいから 

 望みを捨てろ 望みを捨てろ

 

 ふたりになりたいひとりだから ふたりになりたいひとりだから 

 年とることはさけられぬから 年とることはさけられぬから 

 望みを捨てろ 望みを捨てろ

 

 望みを捨てろ 望みを捨てろ 望みを捨てろ 望みを捨てろ

 最後はいやでもひとりだから 最後はいやでもひとりだから 

 望みを捨てろ 望みを捨てろ

 

 望みを捨てろ、なのである。

 妻と子だけは暖めたいのである。我が家だけは守りたいのである。年とることはさけられず、最後はいやでもひとりなのだ。

 自己の内面世界での煩悶であり、そこに家族以外の他者は存在しない。鬱屈していた純な叫びがとめどなく溢れ出ている。

 守りたい家族のために望みを捨てろ。望みとは何か。家族との日々は望んでいることではないのか。いや、一番望んでることだからこそ、そのほかの望みを捨てろなのだ。

 大ブレークしたが故に、冤罪とも言える事件に巻き込まれ、自分の望んでいたものの果てがこれだったのかと、虚しさや怒りをぶつけた曲なのではないだろうか。

 歌詞は6番まで書かれており、3番が終わったあとに転調し、バンドの演奏が厚みを増す。そこからは無秩序の秩序とでも言おうか。ビートルズの「A Day in the Life」後半のような混沌。拓郎の声はどんどんかすれていく。それとともに4分あたりでフェード・アウトしていく。これは当時のレコードの収録時間の問題からか。そうだったとしても、ライブ・アルバムの最後の曲がフェード・アウトというのは、余韻を消さずに終わっているようなもので、いつまでも早鐘を打つ鼓動が治らないのだ。

 だが数年前に、YouTubeにこの曲のフル・ヴァージョンがアップされていた。7分を越えていた。最後は声になっていなかった。

 延々演奏される「人間なんて」も圧倒的だが、この「望みを捨てろ」も互角だ。むしろ底通する凄みは増しているようにさえ思える。

 私個人の日常においても、プレッシャーや葛藤に苛まれてどうにも気持ちの置きどころがないときに、「我が家だけは守りたいから」の言葉に大きくズンズンと背中を押されたことが幾度となくあった。同時に、「最後はいやでもひとりだから」に遠くない未来に、覚悟を決めなければならない現実を前にひるむこともある。

 拓郎の曲の中で、この曲は私にとって相当に重要な一曲なのだ。

 

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裏ジャケも実に雰囲気がいい



御大も4月で76歳、いよいよ最後のアルバムとなるのか

 

 拓郎は2003年に肺がんが発覚して手術している。その後数年は見ているこちらも再発がないようにとドキドキしていたのだが、そういうこともなく今年76歳。2009年には気管支炎を拗らせてツアーを一部キャンセルしたが、その後も数年に一度はライブを行っている。ただ、この10年ほどは見るたびに「小さくなってるな」と思わざるを得ない。それはそうだ、デビューして半世紀だ。

 この拓郎世代が日本のポップ・ロックの歴史を更新してきていることは疑いがない。永ちゃん然り、陽水然り、小田さん然り、細野さん然り、それに続くさだも達郎も矢野も。清志郎も生きていれば70歳か。見てみたかった。

 還暦を過ぎて、喜寿も過ぎたというのにスタンス変わらず、未だ熱く音と格闘している。そういうエネルギーがあることも、環境が整っていることも、ある種の奇跡であり、平穏な社会であるからなのではないか。

 二十歳前後の若者たちは、なんのレッテルも偏見もなくこの御大たちに触れる。その上で衝撃を受ける人も少なくないだろう。私は自分を遅れてきた拓郎世代だと思っているが、それだってたかだか10年ほど。そんなことはもはや関係なくなっている。彼らは永遠なのだ。

 そう思うのと同時に、私自身も年をとったと言わざるを得ない。かれこれ40年以上付き合っているアーティストの多いこと。三つ子の魂百まで、とはよく言ったもので、やはりティーンエイジに刷り込まれた音楽体験というのもまた、百までなのだ。

 

 拓郎のことについてはいくらでも書きたいことがあり、今回はごくごく導入に過ぎない。とりあえず本記事の最後にひとつ、気になることを記しておきたい。

 今から20年ほど前に、拓郎は自身が立ち上げたフォーライフを去り、インペリアル・レコードへ移籍した。そしてその10年ほどあと、新たなレコード会社としてエイベックスを選んだ。これには相当に驚いた。ここは小室哲哉ですよ、ずっと小室等だった人が(わかるかな)。

 移籍とともにラスト・ツアー、ということだったのだが、前記の気管支炎で後半キャンセル。しかしその後、何度かライブはやっている。意欲の証だ。拓郎自身も体調がもどかしいだろう。

 だが流石に76歳。つい先頃はじめられた公式ブログを読んでいると、ニュー・アルバムのレコーディングを行っているという。そしてそれが、「ラスト・アルバム」となるらしいのだ。うーむ、複雑な感慨に包まれる。

 そりゃ当然ずっとそこにいて、活動しているものと思っていた。だが同時にすでに後期高齢者だ。いつかは来ると覚悟していたが、来ないで欲しいとも思い、そこには目を向けないようにしていたというのが実際のところ。

 とうとう最後のアルバムとなるのだ。

 キャリア半世紀超のロック・ポップのミュージシャンのラスト・アルバムに立ち会うというのは、日本では間違いなく初めてのことだろう。演歌の方々でもそれは数えるほどなはず。

 日本で最初のコンサート・ツアーを敢行し、日本で最初の5万人規模の野外ライブを成功させ、日本で最初のミュージシャンによるレコード会社を作った人だ。最後のときを見届けたい。

 でも拓郎はいつも裏切ってきた。この『LIVE’73』でも、昔の曲を歌ったあと、「こんな曲ももうやらないんだろうけど」という台詞を言い、1985年のつま恋でのオールナイト・ライブで引退といった発言をしたが、3年後にはツアーを再開した。

 だからこのラスト・アルバムも、信用ならない。

 でも年齢を考えれば、永遠ではない。49年前にもなるこの『LIVE’73』を今再び堪能しつつ、拓郎には永遠の嘘をついてほしい。長い時間が過ぎていったのだ。

 

 

 

#011『...NOTHING LIKE THE SUN』Sting(1987)

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モノクロのポートレートは、虚飾なしの誓いのようなもの

 


『...ナッシング・ライク・ザ・サン』スティング

 

sideA

1. The lazarus heart(ザ・ラザラス・ハート)

2. Be still my beating heart(ビー・スティル・マイ・ビーティング・ハート)

3. Englishman in new york(イングリッシュマン・イン・ニューヨーク)

sideB

1. History will teach us nothing(歴史はくり返す)

2. They dance alone(Gueca solo)(孤独なダンス)

3. Fragile(フラジャイル)

sideC

1. We’ll be together(ウイル・ビー・トゥゲザー)

2. Straight to my heart(ストレート・トゥ・マイ・ハート)

3. Rock steady(ロック・ステディー)

sideD

1. Sister moon(シスター・ムーン)

2. Little wing(リトル・ウィング)

3. The secret marriage(シークレット・マリッジ)

 

[Recording Musician]

Manu Katche : Drums

Kenny Kirkland : Keyboards

Mino Cinema : Percussion, Vocoder

Branford Marsalis : Saxophone

Andy Newmark : Additional drums

Gil Evans and his orchestra “Little wing”

Hiram Bullock : Guitar “Little wing”

Kenwood Dennard : Drums “Little wing”

Mark Egan : Bass “Little wing”

Andy Summers : Guitar “The lazarus heart”, “Be still my beating heart”

Fareed Haque : Guitar “They dance alone”

Mark Knopfler : Guitar “They dance alone”

Eric Clapton : Guitar “They dance alone”

Ruben Blades : Spanish “They dance alone”

Ken Helman : Piano “The secret marriage”

Dollette McDonald : Backing vocals

Janice Pendarvis : Backing vocals

Vesta Williams : Backing vocals

Rene Gayer : Backing vocals

Sting : Vocals, Basses, Guitar “Fragile”, “History will teach us nothing”

 

All songs written and arranged by Sting. except for “Little wing”

Produced by Neil Dorfsman and Sting

 

 

 

 

1981年、ポリスの武道館コンサートをFMで聴いて、3ピースに目覚める

 

 ポリスというイギリスのバンドがあって、「高校教師」や「ドゥドゥドゥ・デ・ダダダ」という変なタイトルの曲を発表しているということは中1のときには知っていた。ラジオでちょこっと聴いてもいた。で、気になっていたのだろう。

 中1の終わり頃、来日したポリスの武道館コンサートをNHK-FMで90分間オンエアされ、それをエア・チェックした。またもFMネタからになってしまったな。4thアルバムの『Ghost in the machine』発表前である。

 そのライブの衝撃たるや、一気に引き込まれていった。スリリングでスピード感があって、リズムが跳ねて、とにかく痺れるくらいにかっこよかった。これを3人で演奏しているのかと、驚いたものだった。私は3ピースのバンドに惹かれることが多いのだが、それも辿っていけばポリスが原点なのだ。しかも、レゲエ・タッチで「イ・ヨーヨーッ」とボブ・マーリー並みに煽ってくる。で、私はボブ・マーリーより先にポリスに遭遇してたわけである。そのせいか、レゲエは洋楽としてすんなり受け入れられたようだ。

 そのポリスのベーシストがスティング。ちなみにギターはアンディー・サマーズ、ドラムスはスチュアート・コープランド

 エア・チェックしたテープはそれこそ擦り切れるほど聴いた。3rdアルバムまでの代表曲をほぼ演奏したそのライブで、ポリスの音やスタイルをしっかりと刷り込んだ私は、同年に発表された4thアルバムの『Ghost in the machine』を聴いてショックを受けた。

「今までのポリスと違う」

 このアルバムはそれまでよりも大胆にシンセを取り入れ、ちょっと難解な感じを受けたのだ。歌詞を読んでいたわけではないが、そんな雰囲気を読み取った。それは当たっていなくもなく、そのメッセージ性の強い内容のアルバムはかなりの評価を得ていたと知った。

 そして1983年に大ヒット作となる5thアルバム『Synchronicity』を発表する。高1の頃だ。私はすでにバイトをはじめていて、中学時代よりはレコードを買えるようになっていた。といっても毎月というわけにはいかない。でもこのアルバムは即座に買った。収録されている「見つめていたい」が爆発的にヒットする前だったと思う。やはりポリスは好きだったのだ。

 ポリスはこの『Synchronicity』で名実ともにビッグ・アーティストとなった。だが、これが最後のオリジナル・アルバムとなってしまった。これはまったく予想もできず、残念というしかない。

 余談だが、高校に入ってすぐにバンドを組んだ私は、ポリスとU2の楽曲をレパートリーとして練習した。ともに好きなバンドだったということに加え、少人数で音数が少ないというのが選曲の理由だったのだが、いやいや若かったね、考えが。双方テクニックに優れたメンバーが揃っているからこそ、少人数であれだけのサウンドを奏でられるのだ。到底16の私たちが満足な演奏を行えるアンサンブルではないのだ。すぐに断念しました。

 そして1985年にスティングはソロ・アルバム『The dream of the blue turtles』を発表。多分にジャズ・テイストが香る大人なアルバムだった。当時、すべてを理解して聴いていたわけではない。だが、好きな曲も少なくなかった。

 その夏、スティングは来日してコンサートを行った。これが今で言う「フェス」だったのである。しかも、他にフォリナー、ディオ、ママズ・ボーイズなど、随分無節操なライン・ナップだった「スーパー・ロック・85」。場所はまだほとんど建物などないお台場の埋立地。かろうじて船の科学館はあったか。レインボー・ブリッジもフジテレビもない頃。バスでピストン輸送された会場は前日来の雨でドロドロ。そこでオールナイトなのである。はじまる前から憂鬱だった。

 本来、ビッグ・ネームになればなるほどコンサートの終盤に登場するものなのだが、スティングは2番目に出てきた。オールナイトだから夕方スタートのライブは日が暮れきったその位置が最良の時間帯なのだ。スティングはギターを持って、ソロ・アルバムの曲を中心にステージを進める。劣悪な環境ながら、やはりそのステージは洗練されて、圧倒された。ポリス時代の「ロクサーヌ」はエレキ・ギターで弾き語りだった。

 日付が変更する頃に出てきたブリティッシュ・ハードロックの雄、ディオのステージも圧巻だった。深夜にきらびやかなライトが夢のようだった。そう、夢見るような時間になっていた。うつらうつらしそうになって…。最後に薄曇りの白茶けて明けきった朝に登場したママズ・ボーイズの頃は、朦朧。寝ている人も多数。トリなのに。懐かしい高3の夏の一夜だ。

 その2年後、1987年10月に発表されたのが2ndアルバム『...NOTHING LIKE THE SUN』である。一浪して大学に入った年の秋だ。大学に入ってバンド活動に精を出す、という目論見は破れ(そこに自分の志向に合う音楽人がいなかった)、ひとりアコギを持ってふらふらと街をさまよっていた頃だった。

 前作を踏襲しつつもそれをより深くなおかつポップに昇華させた、80年代後半を代表する作品だと思う。

 で、確かこのアルバムは2枚組のLPで発売されたと記憶している。いま手元にあるのはCDで、収録時間は56分。これはLP1枚に収めるのは厳しい。「随分変則的なアルバムだなあ」と当時も思ってた。そんなことも思い出した。なので、上記曲の収録リストも書き直した次第。sideDまでなんて、今の人にとっては違和感ありありでしょう。そのsideDは11分もない。贅沢なのです。ってことは、音質も良かったのか? そこは今となってはわからないです。LP、なんとか入手すっか。

 

 

A面3曲はまったく隙なしのスティングの極み、やられた

 

 A1は「The lazarus heart」。サウンドは前作『The dream of the blue turtles』を踏襲している。スティングのソロ初期のサウンドに欠かせない味付けをしているのが、ブランフォード・マルサリスのサックスだ。この曲も然り、イントロからすぐにスティングの色に染めてくれる。煌びやかなアレンジを施されているが、音数は印象よりは少ない。リズムはシャープで跳ねる、キレがある。エンジニアの手腕が発揮されているとみられる。音を細かに散らばせているのはアンディー・サマーズのギターで、彼は次の曲にも参加している。そして本作のベースはほぼスティング自身が演奏している。これも特徴のひとつと言える。歌詞は多分に宗教的だ。サビの部分の訳詞。

 

 来る日も来る日も新たなる奇跡

 死だけがぼくらを引き裂くだろう

 命をあなたに捧げるべく

 ぼくはラザロの心臓の血となろう

 

 次が「Be still my beating heart」。ベースがフェード・インしてくるイントロから少々穏やかでない雰囲気。イギリスのどんよりとした空が喚起される。基本的にはサウンドはループ、キーボードとギターが効果音的に動きをつける。ポップとジャズのテイストを合わせた、この時期のスティングの音だ。しかし、各楽器の音は鮮明できちんと配置されている。

 A面最後はスティングの最大のヒット曲とも言える「Englishman in new york」。軽いタッチのレゲエだからポリス的でもあるのだが、しかし聴いているとやはりポリスではない。楽器や音色によるところが大きいのだろう。間奏で4ビートのジャズ風になり、そのあと大音でバスドラムとスネアのクッションが入るのだが、ここはちょっと違和感があった、当時から。こういうのはこの頃割と流行っていたので、少し大衆に寄せてみたといったところなのだろうか。

 A面のこの3曲は一気に持っていかれる。決してポップで明るい曲たちではないのだが、スティングの世界の中に何気なく引き込まれ抜け出せない、という有無を言わせない3曲なのである。

 

 B1は「History will teach us nothing」はソフト・タッチのレゲエ。本作には洋楽には珍しく、スティング自身のライナー・ノーツが掲載されている。説明や解説といったものとは少々毛色が異なっており、散文的でありながらもそれぞれの曲にどのような背景や心象があったかが書かれている。この曲の文章はこうだ。

「僕は、歴史の先生に、彼が教えている教科から、一体どうやって役に立つことを学ぶことができるのかと聞いたことがある。僕にとっては、何ひとつ人間としてほめるに値するところのない、盗っ人と変わらないようなクズの男爵たちが、しょうこりもなく、くり返し登場してくるだけとしか思えなかったのである」

 これがスティングの歴史観か。歌詞の中には「本になったぼくらの歴史は犯罪のカタログ」という一節がある。

 次に「They dance alone(Gueca solo)」。スローな曲だが、なんとなく陰りのあるサウンド。終わる直前、アップ・テンポでサルサ・タッチの曲調に変化する。先のライナーを読むと、Guecaというのはチリの求婚時の踊りのことで、しかし彼の国では正当な理由もなく投獄、拷問が行われ、パートナーからひとり残された者が悲しみと抗議のために「solo」で踊る。多分に政治的で人権問題に触れたハードな内容なのである。スティングはソロになってその社会性がより強くなってくる。実際様々な活動も行なっており、それは以降も長く続く。

 それはともかく、この曲にはギタリストとしてエリック・クラプトンマーク・ノップラーが参加している。マーク・ノップラーダイアー・ストレイツとしてヒットした「Money for nothing」にスティングが参加したことからのお返しの意味もあったのだろう。7分という長尺ながら、それはまったく感じない。

 B面最後は「Fragile」。私の本作はこの曲に尽きる、と言ってもいいほど大切な曲、いろいろな記憶が詰め込まれた曲なのである。長くなるが書いておきたい。

『…all this time』というスティングのライブ・アルバムがある。発表は2011年10月、ライブ・レコーディングはその年の9月11日に行われている。そう、ニューヨークで同時多発テロが発生した日だ。世界中がその貿易センタービルに突っ込んでいく旅客機の映像をライブで見た。世界史的にもショッキングな日である。

 イタリアのトスカーナのとある家の中庭の会場に午後9時、スティングが現れた。そして話しはじめた。ライナーの言葉を引用する。

「このコンサートはとても楽しいものになるはずでした。しかし今日起こった悲惨な出来事のため、楽しいものではなくなりました。私たちには3つの選択肢があります。一つは予定通りショウをやること、もうひとつはまったく取り止めにすること、そしてバンドと私が3番目に思いついたのはそれらの折衷案です。私たちはこの恐ろしい出来事で命を失った人たちと彼らを愛していた人たちに捧げ、世界中に流されるウェッブ配信に乗せて1曲演奏します。そして演奏はそこで止めます。その後は皆さん次第です。演奏の後、1分間の黙祷をしたいと思います。拍手はしないでください」

 そして演奏されたのが「Fragile」だった。これは予定されていたオープニングの曲ではなかったという。スティングは涙声で歌った。演奏が終わり、黙祷を捧げたあとスティングは言った。

「私たちはどうしたらいいでしょう」

 聴衆は演奏の続行を望んだ。亡くなった人たちのために。テロに打ち勝つために。スティングは演奏を続けた。ただ、当初予定されていたプログラムは大幅に変更され、テロ被害者への哀悼の意味が濃くなった。それをパッケージしたのが『…all this time』なのである。アルバムに添えられた言葉。

 

 This album was recorded on September 11, 2001

 and is respectfully dedicated to all those who lost their lives on the day.

 

 もうひとつ、東日本大震災が起きたとき、世界中のアーティストたちのアクションは速かった。発生からわずか2週間後に配信という形で『SONG FOR JAPAN』というチャリティ・アルバムが発表された。曲を持ち寄ってくれたのはU2Bob DylanLady GagaBeyonce、Bruno Mars、Justin TimberlakeMadonnaBruce SpringsteenBon JoviSadeEnyaElton John、Queens等々、それにJohn Lennonという新旧錚々たる面々なのだが、もちろんスティングも曲を提供。それが「Fragile」だった。確か、何かのテレビで追悼のために「Fragile」を歌っているスティングも見た。

 のちにCD化もされ、収益金は寄付され、復興支援に充てられた。世界中でチャート1位も獲得したというから、相当な支援金になったはずである。アーティストたちの底力だ。

 厚いキーボードの和音にスティング自身が弾くガット・ギターがボサノヴァ・タッチのリズムを刻み、ベースとパーカッションがそれを柔らかく支えているような演奏。スティングのボーカルも囁くよう、話しかけるよう。サビの歌詞だけ紹介したい。

 

 On and on the rain will fall

 Like tears from a star  like tears from a star

 On and on the rain will say

 How fragile we are  how fragile we are

 

 

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スティングの手によるライナー・ノーツも必読



 

終わり3曲で心の深いところへと誘い、自己と向き合う

 

 さてC面だ。最初にシングル・カットされた「We’ll be together」。キリンビールの依頼で「together」の言葉を入れた歌の依頼が来て、書いたという。CMで使用されたバージョンではギターはエリック・クラプトンが弾いていたが、アルバム収録バージョンではブライアン・ローレンに差し代わった。理由はわからない。クラプトンバージョンは1994年発表のベスト・アルバム「Fields of gold」に収録された。アレンジやミックスはほとんど同じ。なのにクラプトンのチュィーンというチョーキングひとつ入るだけで、ブルース色が濃くなるのだから、もうなんも言えねーな。

 ラテン的ファンクといった曲調で、本アルバムでは一番明るいノリの曲となっている。スコーンと抜けるスネアに、リフレインするホーン、小刻みなパーカッションを、粋なタッチのオルガン系キーボードが味付けする。曲後半はゴスペルタッチの女性コーラスと野太いスティングのボーカルの応酬。勢い余って「If you need somebody」とボソッと言う。ただ、スティング自身はあまり好きな曲ではなかったよう。

 次の「Straight to my heart」は4/4、3/4の拍子、実質7拍の変則リズムの曲。笛のような音色、カリンバのような音色、陽気でない南米系のサウンド。不思議な曲である。けれどもスティング色は濃厚。ポリス当時からの独特の音世界が広がる。この曲と次の「Rock steady」は歌詞が長い。ともにちょっとした掌編小説のような内容である。この曲は進歩する未来に対する不安を描いている。それでも君の愛が「ぼくの心にまっすぐに飛び込んでくる」。

 C面最後の「Rock steady」は当時のスティング流ブルースのような曲。サウンドはキーボードとピアノとサクスフォンが中心になっている。そこにメロディの抑揚がないスティングのボーカルが歌詞をたたみかけてくる。神のメッセージを聞いた老人と船に乗り、そこにはあらゆる動物を2匹ずつ乗せる。まるでノアの方舟のような物語。スティング自身のライナーではこの曲に対して次のように書いている。

「船乗りだった僕の大おじが、いつかこんな忠告をしてくれた。『行く先のわからない船には乗るな』」

 

 最後のD面はジャジーでスタンダードっぽい「Sister moon」ではじまる。ウッド・ベース様の音色にサックス、柔らかなシンセに包まれ、ボーカルが伸びる。歌詞の中に「NOTHING LIKE THE SUN」という言葉がある。シェークスピアからの引用とのこと。英国古典に深い造詣があるというスティングの物語世界が、シンプルな曲調の中に展開している。C面の「Straight to my heart」、「Rock steady」とともに、歌詞がわからないと理解半分の面があるのは否めない。サウンドだけでも楽しむことはできる。しかし歌詞の内容を知ることでアーティストの深いところまでを覗ければ、その曲の意味することをもっと体感できるはず。このあたりは洋楽を聴く日本人の圧倒的に不利な要素だろう。スティングはライナーで、

「月の満ち欠けによって、気が変になったりするすべての人に、あらゆる狂人たちに贈る」

 と書いている。

 ラス前に「Little wing」だ。オリジナルはジミ・ヘンドリックス。クラプトンもデレク・アンド・ザ・ドミノスでカバーしているこの曲を、スティングがやるとは、と当時は思っていた。この曲を取り上げた経緯を、スティング自身がライナーに書いている。

「僕は、ロンドンにあるロニー・スコットのクラブで、ある夜、ギル・エバンスに会った。僕が15歳の時から、彼は、僕にとってのヒーローだった。(中略)それから数年後、グリニッジ・ビレッジのスウィート・バジルという小さなクラブで、僕は彼のバンドと一緒に歌った。(中略)その時、僕たちは、3曲やったが、(中略)あとの2曲は、ギルが長年演奏している、ジミ・ヘンドリックスの『Little wing』と『Up from the skies』だった。『ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス』は、僕が15歳の頃初めて見たバンドのひとつで、その頃、僕は、ジミヘンのファースト・シングル『Hey Joe』を買ったばかりだった(後略)」

 なるほど、そういうわけ。

 ふわふわとした、つかみどころのないアレンジに、ギターのアクセントが効いている。間奏のギターは逆にしっかりとロック・ギターを鳴らしまくる。しかし紛れもなくスティングのカラー。ジミヘン、クラプトン、スティング、それぞれがそれぞれの音に染めている。ライナーでもギル・エバンスに触れられているが、この曲のセッションはギルをはじめ、ニューヨークのジャズ・ミュージシャンたち。それでも他の曲とはたいして違和感を感じない。アルバム製作におけるスティングの立ち位置がはっきりしていたからなのだと思う。

 本作を締めるのは「The secret marriage」。ベースとピアノだけの2分余りの小曲。決して大団円ではないエンディング。不穏な空気を残したままで、まだ何かを言わなければならないのだけど、というように曲が終わる。歌詞の一部を見てみる。

 

 ぼくらの結婚を祝福する教会は地上のどこにもなく

 ぼくらを認めようとする国家もどこにもない

 ぼくら2人はどの家族の絆からも締め出され

 頼みを聞き入れてくれる仲間もどこにもいない

 

 秘密の婚礼 誓いの言葉は決して口にされない

 秘密の結婚 破綻することはありえない

 

 ナチスから逃れるためにアメリカに亡命したドイツの音楽家が作ったのメロディを応用して作られた曲だという。歌詞自体も彼のことを歌ったよう。

 本作はスティング36歳の作品。徹頭徹尾、音楽的、思想的主張をふんだんに込めたアルバムと言ってもいい。潔し。

 

 

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ミュージシャンというよりも求道者に見えてしまう

 

 



行く先に迷ったときに、「深く思考せよ」とスティングに言われた、ような気が

 

 先にも触れたが、本作が発表されたのが1987年の秋で、私は大学に入ったものの、当初の目的が半ば失われて心身ともに彷徨っていた時期だった。そんなときにこのアルバムを聴き、何度も聴き、歌詞は断片的にしか理解できなかったのだけれども、それでもスティングがこれまで以上に何かを沈痛に訴えかけようとしていることはわかった。

「君はどうしようとしているのか」

 スティングに問いかけられているような気がした。

「何も見えない。ただこの猶予期間をどう使っていけばいいのか、わからない」

 ぼんやりとした不安の中にいる私に対し、

「必要なことは、より深く思考することだ」

 そう言ってくれたのだと思う。このアルバムの楽曲を通して。

 だから本作は私にとって、ひとつの哲学書でもあったわけである。自己の内面に沈んで考える。そこから世の中を仰ぎ見る。少しずつ外部へと視界を広げていく。そんなことを繰り返していた。

 並行して、本を読み漁った。ひたすら読書に明け暮れた。私小説から難解な学術書まで、とにかく読み散らかした。人生で一番本を読んだ時期だ。

 ほぼ籠りきっての読み漁り生活から半年余り、私は日本を見て歩くことにした。低予算長期間をモットーに、各停で多くの町を見たいと思った。それから数年の間、夏と冬の長い休みに入ると、リュックひとつ背負って(当時はまだバッグ・パッカーなんて言わない)列車に揺られて西へ、北へと旅してまわった。

 このときの体験は、のちの人生に確実に影響した。このあたりの話はまたいずれ機会があれば。長くなること必至なので。

 まあ、私個人の歴史のそんな時期に強烈に焼き付いていたアルバム、と理解していただければ。

 そんな背景があるので、このアルバムは私にとって重要なのである。

 思えば80年代は私のいわゆる青春真っ只中なわけで、短期間のうちに多くのものに出会い、吸収し、影響を受けていた。昨日まで白だったものが翌日には黒になったということもある。目から鱗のようなこと。だからほんの少し時期を違えただけで、指向性が変わったことだってある。それでも徐々に吸収されたものが削ぎ落とされていき、粋の部分だけが残っていき、それ以前よりは自己というものが固まっていく。完成はきっとしない、人生の終わりまでは。でもそれは揺るぎないものにはなっていく。

 私はこの時期のスティングに、そんな揺るぎないものを感じていたのかもしれない。

 少々堅くなってしまった。すまぬ。

 当時よりもなお、現代社会が抱えた問題は多く、深い。それらのことを思考せよと未だスティングは言う、私に。そのとき、流れてくるのは当然「Fragile」なのだ。

 スティングのロックもかっこいいのだが、どうしても憂いのあるこの曲に行き当たってしまう。

 

 On and on the rain will say

 How fragile we are  how fragile we are

 

 スティングは私の耳元でそう囁き続けている。30年以上経った今もなお。ことあるごとに。

 

 

 

・・・オール・ディス・タイム

 

#010『峠のわが家』矢野顕子(1986)

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飾り気がほとんどないジャケット、中身で勝負、ということかな

 

『峠のわが家』矢野顕子

 

sideA

1. The Girl of Integrity

2. David

3. ちいさい秋みつけた

4. 一分間

5. おてちょ。(Drop me a Line)

sideB

1. 海と少年

2. 夏の終り

3. そこのアイロンに告ぐ

4. Home Sweet Home

 

 

[Recording Musician]

Steve Ferrone : Drums

高橋幸宏 : Drums

Steve Gadd : Drums

Anthony Jackson : Bass

Eddie Gomez : Bass

Eddie Martinez : Guitar

大村憲司 : Guitar

松原正樹 : Guitar

吉川忠英 : Acoustic guitar

坂本龍一 : Keyboards

Benny Wallace : Alto sax

Gene Orloff : strings contractor

井上陽水 : Background Vocals

鈴木さえこ: Background Vocals

鈴木慶一 : Background Vocals

武川雅寛 : Background Vocals

矢野顕子 : Piano, Keyboards, Background Vocals

 

 

Produced by 矢野顕子

Co-produced by 坂本龍一

 

 

 

 

いわゆるYMO時代を終え、新たな局面へ踏み出した一枚

 

 矢野顕子を初めて見たのは、YMOがワールド・ツアーを終え、東京に凱旋したライブがTVで放映されたとき。1980年の暮れだったか。そのサポート・メンバーだった矢野を見て、私は「矢野顕子というのは随分イカれた(もとい、イカした)キーボード奏者なのだな」と思ったものだ。すでに雑誌などではその詳細を知っていたし、写真も多数拝見していた。前年のツアーのライブ・アルバムも聴いていたので、ちょっと跳ねた感じの人だとは思っていた。しかしやはり、動画の印象は強烈だった。で、私は取り憑かれてしまっていた。

 東京で生まれ、青森で育った矢野顕子さん。彼女が東京へ戻ってきたのは15歳。青山学院高等部へ通いながらレストランでピアノを演奏するが、そちらが忙しくて中退。父の知り合いである安部譲二の家に移り、彼の経営するジャズクラブで演奏するようになる。そこで彼女のピアノは音楽業界に一気に知れ渡り、スタジオ・ミュージシャンとしての仕事も舞い込むようになる。

「ザリバ」というグループを組んでシングルを出すが、1枚で解散。満を持した形で1st solo album『JAPANESE GIRL』を発表したのが1976年。A面のバックを務めたのはなんと「Little Feat」だ。だが、レコーディングを終えたロウエル・ジョージはギャラを受け取らなかったという。「矢野の音楽に対して自分たちはそれをきちんとサポートできなかった」と言ったとか。当代きっての米国アーティストが、矢野の才能に兜を脱いだのだった。B面は細野晴臣鈴木茂はっぴいえんど組やムーンライダースなどが参加するという、なんとも贅沢な作品となったのである。

 矢野の名を世間に広めたのは、YMOのワールド・ツアーにサポート・メンバーとして参加したことと、その直後の「春咲小紅」のヒット。1980年前後のこと。YMOのワールド・ツアーの演奏はその後も結構発表されており、その中で演奏された矢野の「在広東少年」も収録されているのだが、曲が終わったあとのオーディエンスの歓声と拍手はYMOを凌ぐほどのもの。そのパフォーマンスと存在感の大きさをうかがい知れる。

 まあつまり、YMOから矢野に入っていったのです、私の場合は。

 YMOのサポートをしつつも、矢野はそのYMOをバックに2枚組の大作であり名作『ごはんができたよ』を発表する。それまでの矢野作品にテクノ・テイストをふんだんに盛り込んだ超がつくほどの傑作アルバムは、矢野の代表作のひとつとなった。同時に当時のテクノ小僧たちにも大いに支持される。

 その路線が先数年のアルバムでも続いていく。80年代前半の『ただいま。』、『愛がなくちゃね。』あたりまでは矢野テクノを進化させていくのだが、1984年の『オーエスオーエス』ではYMOのメンバーは参加しているものの、それまでのテクノとはいくらか毛色が異なってくる。コテコテな曲が少なくなった。

 そして本作『峠のわが家』に至る。

 発売は1986年2月21日。当時はレコードとCDが同時発売された頃か。それ以前はまずレコードが発売され、1~2ヶ月後にCD、という形が多かった。それでもまだCD黎明期。その頃私はまだCDデッキは持っていない。聴いたのはレコードだ。

 高校卒業直前の時期で、全然勉強していなかったから卒業後は浪人決定なのだけど、でも一応2校くらい大学受験して、それが終わったくらいの頃。発売後わりと早く聴いたと思う。で、すぐにのめり込んで何度も聴いた。私にはとても新鮮なサウンドに聴こえた。

 ジャジーな曲もあれば、リズムで圧倒される曲もあり、また安定の矢野ポップもありの充実の1枚だ。カバーの選曲も良く、出来も抜群。そこまでの数年、矢野とYMOは表裏一体のような山を形作っていた印象だったのが、本作で矢野は独立峰となったと感じた。坂本龍一が全面的に参加しているが、おまかせにはしていない。あくまでも矢野のやりたいことをサポートしている。そのあたりが私には新しく感じられたのだろう。

 ちなみに本作は、矢野も設立に関わったレコード会社「MIDI」の第1弾アルバムである。

 

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折り込み型の歌詞カードは最近少なくなった

 

 

今でも衝撃が走る「ちいさい秋みつけた」の矢野的アプローチ

 

 アルバムはスティーブ・フェローンのドラムからはじまる。「The Girl of Integrity」はほとんど2コードのセッションのような曲なのだが、太鼓の音処理などは80年代半ば風で、ニューウエーヴ的な仕上がりにもなっている。それで「金が欲しいわけじゃない、ここまできたのは」という歌詞だ。当時は今ひとつピンとこなかったが、少しずつ毒が回っていって、何年かあとにはもうそれが抜けなくなった。「Integrity」は誠実とか高潔とか完全性といった意味。「でも自由ほんとに 自由こんなに」のところで陽水のコーラスが入る。ドラムのスティーブ、ギターのエディ・マルチネス以外のインストルメンツは坂本。クルンクルン鳴ってるピアノが印象的なのだが、クレジットに矢野の名前はない。作詞・作曲は矢野。

 本作で一番有名な曲は次の「David」だろう。のちにフジテレビの深夜番組「やっぱり猫が好き」のテーマ曲として流れるようになり、本作発売後4年以上経ってシングル・カットされた。この曲はそれまでの矢野テクノ路線に近い親しみやすいポップ・ソング。イントロのキーボードのフレーズで持っていかれる。さてこのDavidさんはデヴィッド・ボウイなのか、デヴィッド・シルビアンなのか。あるいはまた別の…。それはわからない。本作発表当初はテレビ番組のオープニングに使われてヒットするとは考えもしていなかったが、好きなアレンジだったので、やはり世の中に受け入れられる要素を持った曲だったのだろう。ドラムは高橋幸宏、ギターは大村憲司、キーボードが矢野と坂本。コーラスに鈴木慶一、鈴木さえこ、武川雅寛と矢野。作詞・作曲は矢野。

 そして本作の最初の山場となるのが「ちいさい秋みつけた」。サトウハチロー作詞、中田喜直作曲の誰もがご存じだろう童謡も矢野の手にかかると、矢野カラー染め上げられてしまうのは、すでにこれまでのアルバムでも経験済み。スティーブ・フェローンのドラム、アンソニー・ジャクソンのベース、そして矢野のピアノのトリオが基本。アンソニー・ジャクソンとのセッションはこの曲が初めてで、以降長きに渡っての付き合い。やはり1996年から年末恒例となった「さとがえるコンサート」での名演が焼き付いている。そこでもピアノ・トリオが基本で、この曲も何度か演奏された。だからあらためてこのアルバム・ヴァージョンを聴くと、坂本のキーボードが意外とたくさん入っていることに気づかされる。間奏や後奏は、Sly and the family stone の「If you want me to stay」へのオマージュか。まあ、このコード進行は珍しくはないけど。しかし、高校を卒業した頃の私には大いに刺激的な一曲となったのだった。スリリングな演奏だと思った。音数は多くないのに。そんな中で「ちいさい秋 ちいさい秋 誰かさん誰かさん誰かさん ダダダァー ウォーホー」とスキャットでたたみかけるのだから、こっちの腰も動いてくる。いや何度もリピートして聴いた。ライブで見たときも大興奮だった。

 次の「一分間」も基本はピアノ・トリオ。でも前曲のセッションとは異なり、ドラムはスティーブ・ガッド、ウッド・ベースはエディ・ゴメス、途中でベニー・ウォラスのアルト・サックスが入る。この曲には坂本は参加していないので、よりジャジーな雰囲気が濃厚に漂う三拍子の小曲。現代詩人の藤富保男の詩に矢野が曲をつけた。

 

 非常に静かな

 一分間

 葡萄酒の上には

 雲が浮かんでいた

 ぼくには

 月

 犬は腕組みをしている

 

 今聴くと実にしみてきて、その上楽しくなってくる。のだが、当時の私にはわからなかったのだな。この詩も、そしてサウンドも。でも「犬は腕組みをしてる」のところではその絵がいつも頭の中に浮かんできて、クスッと笑ってたか。

 ニューヨークのスタジオ、パワーステーションもクレジットされているのだが、このスティーブ・ガッドのセッションがそれにあたるのだろうか。

 A面ラストは「おてちょ。(Drop me a Line)」。おてちょが「おてがみちょうだい」の略だったことを、今回初めて知った。ドン・ドンドンという祭りの太鼓のようなビートに吉川忠英のアコギのコードが乗り、エディ・マルチネスのギターがうねる。キーボードは坂本のみ。作詞には矢野とピーター・バラカンの名が。歌詞は英語だ。ニューウェーヴともなんとも言い難いような曲なのだが、紛れもなく矢野テイストふんだんの曲ではある。

 

 

 

息つく暇ないB面を聴き終わると、なんという多幸感、そしてちょっとだけせつない

 

 B面最初は「海と少年」。大貫妙子の曲で、彼女の1978年発表のアルバム『ミニヨン』に収録されている。余談だがこのアルバムのプロデューサーはなんと音楽評論家の小倉エージだ。驚いた。大貫の原曲は大きく括ればいわゆるシティ・ポップ系のサウンド。なのだけど、細野晴臣のベースがあまりにも細野的で、そちらの色のほうが濃く感じる。編曲は坂本だ。

 矢野カバーのほうは、原曲アレンジからそれほど遠くはない。けれどもリズムのアタックが強い。ドラムはスティーブ・フェローン、ギターはエディ・マルチネス、その他は坂本だから「The Girl of Integrity」のセッション。だが、ギターにもう一人、松原正樹がクレジットされている。リズム・ギターだ。彼のギターのカッティングがこの曲の肝だと聴くたびに感じる。どの時代でも、どのセッションでもいいギターを弾く。編曲は矢野と坂本。

 次の「夏の終り」から最後までの3曲はいつも一気に聴き入ってしまう。まともに向き合って聴くから、終わったあとは多少の疲労感がある。しかしそれ以上の多幸感に包まれ、ちょっとだけせつなくて眼が潤む。フーッと息を吐く。

「夏の終り」は作詞・作曲は小田和正オフコースが5人になって1978年に発表されたアルバム『FAIRWAY』に収録されている曲。当時、オフコースは聴いていた。けれども矢野との接点が見出せず、「なぜこの曲?」というはてなマークがしばらくチラついていた。矢野はかなりの小田ファンだったというのはあとで知ることとなる。その後も原曲を留めない「YES-YES-YES」を発表したり、小田と一緒に The Boom の「中央線」を歌ったりと、小田がらみのトピックは多い。「さとがえるコンサート」にサプライズで小田が出てきたこともあった。

 それはさておき、この曲にはストリングスが全編に取り入れられており、それが荘厳かというと、そうでもない。なんとなく曇り空のグレート・ブリテンみたいな印象。そう思えば「嵐が丘」のような感じもするし、アレンジやボーカル・スタイルがケイト・ブッシュに近いような気もしてくる。原曲がせつなくもほんわかしたアレンジなので、曲調はまったく違っている。後半はかなり劇的だ。ドラムはスティーブ・ガッド、ベースはアンソニー・ジャクソン、キーボードには坂本のみ。で、ストリングス・アレンジは坂本なのだが、「strings contractor」としてジーン・オルロフという人がクレジットされている。ストリングス関係の奏者の名はない。「contractor」を調べると「委託業者」や「契約者」とある。つまりこの人に丸投げして納品してもらったということなのか。他に「The Girl of Integrity」と次の「そこのアイロンに告ぐ」にも名がある。

 その「そこのアイロンに告ぐ」。That’s the Yano world なスリリングなセッションだ。まごうことなくジャズ。前曲と同じリズム隊に松原正樹のギター、ベニー・ウォラスのアルト・サックス、坂本のキーボード。それで矢野のピアノと当然思うのだが、なんとそれはクレジットされていない。えっ。弾いてないの。この曲はのちに上原ひろみとのピアノ・セッションが有名だし、矢野のピアノ・ジャズの代表曲なのに? 今一度聴いてみる。ホントだ。メインはエレピで、生ピは入ってない。これも坂本が弾いているのか。ここを任せてしまうなんて、二人が一番蜜月の時代だったのだろう。

 ジャジーなのは間奏、サックス・トリオのスリリングなセッション。2度目の間奏にはこれに松原正樹の軽妙なカッティング・ギターとエレピのカッティングが加わる。とは言ってもやはりこの曲は狂気にも似た矢野のボーカル。息つかせぬ矢継ぎ早の言葉に縦横に動き回る声。聴いているほうも息継ぎの場所を探しながら拍子をとる。だから疲れるのである。本気で相対さないと打ち負かされる曲なのだ。

 エンディングは「Home Sweet Home」。ユキヒロのバス・ドラムのドッ・ドドッに吉川忠英の綺麗なアコギのアルペジオ。笛のような音色のシンセ。それだけでなんだかせつない。歌詞を全部読みたい。

 

 大きい家 小さなアパート

 人が寝るところ どこも少し寂しいね

 小さい窓からにじむにおい

 もうすぐ集まる家族のごちそうの音

 あれが Home Sweet Home

 いつも夢見る

 今はひとり

 一緒にいた時は知らない気持ち

 Home Sweet Home

 遠くはなれてても あなたを忘れない

 愛をおしえてくれた あなたが大好きよ

 誰もわかってくれないの

 ここにいられない やっとひとりになれるね

 壊した家を出たくせに

 今 私達は 新しい家を作る

 ここが Home Sweet Home

 愛する人たち

 されど Home Sweet Home

 たとえ ひとりきりになったとしても

 Home Sweet Home

 遠くはなれてても あなたを忘れない

 愛をおしえてくれた あなたが大好きよ

 

 初めて聴いたときも今も、グッときて涙出そうになるのは「壊した家を出たくせに 今 私達は 新しい家を作る」のくだりだ。矢野も情感込めて歌い上げる。実に人の心情をよく表している詩だと思う。もしかすると人類の歴史なんてこの繰り返しかも知れない。作詞・作曲共に矢野。エレキ・ギターは大村憲司、キーボードは坂本、ピアノは矢野。

 サビ前からユキヒロのドラムの手数が増し、それまでの情緒とは打って変わってタイトなビートの佳境を迎える。『ごはんができたよ』から続く矢野のポップ・テクノの行き着く先はこの曲。はじめに比すれば若干テクノ色は薄れてきているものの、この路線の集大成のような曲なのである。翌年発表された『GRANOLA』が相当にアコースティック色が強い作品であることから考えても、この『峠のわが家』は矢野の80’s前半の集大成といってもいい。だからこそ、時代を超えてなお新鮮に、長く聴き続けることができるアルバムとなったのではないか。

 

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MIDIの文字が懐かしい。ある種のブランドでした。



 

充実の90年代を経て、今なお驚きのアルバムを発表してくる過激な姿勢

 

 本作で私の「矢野愛」は揺るぎないものとなった。その後、私的には「充実期」とさえ呼びたい90年代に入る。

 1990年にニューヨークに移住し、1991年の『Love Life』から『Love is Here』、『Elephant Hotel』。さらにピアノ弾き語りの『Super Folk Song』、『Piano Nightly』と矢野スタイルを確立し、彼女の作る音楽がもはやひとつのジャンルとして存在するが如く、無比の存在となった。

 とりわけ、『Love is Here』発表後のコンサートにひとつの極みを見せる。

 ピアノ2台にアコースティック・ギター、パーカッションという変則編成で、ボサノヴァ・タッチの穏やかで落ち着いた雰囲気のコンサート、と思われたのだが、ピンと糸が張り詰めたような、静かな緊張感に目が離せなくなる。そして終盤、ユニコーンのカバー「すばらしい日々」でそれは頂点に達する。前半は比較的しっとりと進んでいく。原曲とはまったく違うアレンジと息づかい。サビで3/4に拍が変わる。最後のサビからは矢野の嗚咽にも似たボーカルとスケールが高まっていくピアノで、こちらも息を飲みつつ目を反らせない。これこそが「鬼気迫る」演奏と言うのだろう。奥田民生があえて淡々と無感情に歌っているのとは、まったく対照的な名演である。奥田のも名演だが、ここまで換骨奪胎して自分のものにしてしまうとは、もう神の領域か。

 今でもこの曲を聴くのには勇気がいる。上記の通り、聴き流すことなんてできないし、聴きはじめたら最後まで本気で対峙しなければならないから、全身で受け止めなければならないから。

 1996年から毎年年末恒例の「さとがえるコンサート」がはじまる。私は第1回から10年間通った。カエルのキー・チェーンも10個ある。基本的にはピアノ・トリオなのだが、その編成や内容は年ごとに柔軟に変わっている。トリオにギターが加わった年もあれば、くるりがバックを務めた年もあった。くるりの年はなんと最前列の席が当たって、しかし当日は体調悪く唸りながらステージを見上げていた。目の前だから途中退席もはばかられ、なお呻吟した覚えがあるが、それも今となっては懐かしき思い出。

 ちなみに昨年もきちんと行われている。林立夫小原礼佐橋佳幸という強者たちをバックに。

 ここ数年はTwitterでの発信を積極的に行なっている。東日本大震災後の東北との関係のことや、和食の食材事情や、水泳をはじめたことや、そしてコロナ禍のニューヨークの様子など、市民目線の発信はリアルで楽しい。

 近年はアルバム発表の間隔が長くなってきているが、「本気のテクノを見せてあげる」とうたった2015年のアルバム『Welcome to Jupiter』はなかなかの迫力だった。そしてすごく遠いところへ行ったなと思える曲もあった。さすがだ。

 2005年まではかなり濃厚に聴いてきた。それ以降は家族ができたこともあり、ライブには行けなくなったが、ニュー・アルバムが出れば聴く。「あー、今の矢野はこんなこと考えてるんだ」などと思いつつ、もはや古い友だち感覚で矢野の音に接しられる。長く聴き続けるとは、こういうことなのかと。

 まだきっと終わらない。あと何度驚かされることかと楽しみにしている。ひとつ気になっていることは、生涯をニューヨークで終えるつもりなのか、ということ。多分、そうなんだろう。

 

峠のわが家

峠のわが家

Amazon

 

 

#009『REVOLVER』The Beatles(1966)

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ビートルズのアルバムを選ぼうというときに、最初に脳裏に浮かんだのがこのジャケット。

 

リボルバーザ・ビートルズ

 

sideA

1. Taxman(タックスマン)

2. Eleanor Rigby(エリナー・リグビー)

3. I’m Only Sleeping(アイム・オンリー・スリーピング)

4. Love You To(ラヴ・ユー・トゥ)

5. Here There and Everywhere(ヒア・ゼア・アンド・エブリホエア)

6. Yellow Submarine(イエロー・サブマリン)

7. She Said She Said(シー・セッド・シー・セッド)

sideB

1. Good Day Sunshine(グッド・デイ・サンシャイン)

2. And Your Bird Can Sing(アンド・ユア・バード・キャン・シング)

3. For No One(フォー・ノー・ワン)

4. Dr. Robert(ドクター・ロバート)

5. I Want To Tell You(アイ・ウォント・テル・ユー)

6. Got To Get You Into My Life(ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ)

7. Tomorrow Never Knows(トゥモロー・ネバー・ノウズ)

 

 

The Beatles

John Lennon : Vocal, Guitar, Hammond organ, Mellotron, Tambourine

Paul McCartney : Vocal, Bass, Guitar, Piano, Clavichord

George Harrison : Vocal, Guitar, Bass, Sitar, Tambura, Maracas, Tambourine

Ringo Starr : Vocal, Drums, Maracas, Tambourine, Cowbell, Shaker

 

[Additional Musicians]

Anil Bhagwat : Tabla

Alan Civil : French horn

George Martin : Piano, Hammond organ, 

Mal Evans : Bass drum

Tony Gilbert, Sidney Sax, John Sharpe, Jurgen Hess : Violins

Stephen Shingles, John Underwood : Violas

Derek Simpson, Norman Jones : Cellos

Eddie Thornton, Ian Hamer, Les Condon : Trumpet

Peter Coe, Alan Branscombe : Tenor saxophone

Geoff Emerick, Neil Aspinall, Pattie Boyd, Brian Jones, Marianne Faithfull, Alf Bicknell : Background vocals

 

Produced by George Martin

 

 

ビートルズは、終わってみれば全部紹介してる、かも

 

 ビートルズという名を知ったのは小学生だっただろう。それが何者かもわからず。吉田拓郎井上陽水矢沢永吉なども同じだ。名前は出てくるのだ、小学生が読む本なんかにも。すごい歌手であることもそこから読み取れていた。ではどんな人でどんな歌なのか、小学生の私は知らない、あまり興味もないという。そういう存在だった。

 でもそれがビートルズとは知らずに、耳にしていた曲が実に多い。あとで「ああこれか」と思った曲が20くらいはあっただろう。例えば当時の子供番組「ひらけ、ポンキッキ」では「Please please me」や「Love me do」が短いコーナーのSEとして使用されていたし、「Ob-la-di, Ob-la-da」や「She loves you」、「All you need is love」、「Help」、「Ticket to ride」、「Here comes the sun」etcetcなどがテレビやラジオで頻繁に使われていたのだろう。初聴で「知ってる」と思った曲がかなりあった。

 そこから踏み出すことになったのは1980年1月、ポール・マッカートニーが成田空港に降り立った途端、大麻取締法違反で逮捕された事件だった。この時期、私は中学受験の追い込みの時期で、深夜ラジオを聴きながら勉強する日が続いていたのだか、ラジオのニュースでその事件を知った。翌日の新聞にも大きく報じられた。そこでこの人がビートルズということを知ったのだった。

 受験は失敗し、地元の中学に通うと、そこの英語の教科書にジョンとポールが出てきたのだった。ビートルズは教科書にまで登場するのか。これで少しずつ興味が湧いてきた。

 当時NHK-FMの平日夕方4時10分から6時まで「軽音楽をあなたに」という番組があった。軽音楽というものがなんなのかも知らず、また軽音楽なんて言い方も今にして思えばポップス黎明期を引きずっているようで、おかしい。いや、2021年の現段階から見れば、黎明期の終わりくらいになるのか。

 要は洋邦のポップ・ロックを特集して流してくれるプログラムだったのだが、そこで1週間通してビートルズのアルバムを全部オン・エアするという特集があった。これは好機となけなしの小遣いをはたいてカセット・テープを10本買い込み、学校が終わったらすぐに走って家に帰り、すべてエア・チェック(録音です)したのだった。前にも書いたが、当時のFMはオン・エア・リストを事前にFM誌に掲載し、なおかつアルバムの場合はご丁寧にA面が終わったらカセット・テープをひっくり返して巻き戻すくらいのインターバルをDJのおしゃべりで空けていてくれるという、なんともご丁寧な構成だったので、無事にすべてのアルバムを録音できたのだった。

 もちろんその後はテープを聴きまくった。のだけどそこはやはりまだ中1、理解できないサウンドもかなりあった。当時はやはり初期から中期手前のものを好んで聴いていて、2枚組ベストで言えば「赤盤」あたりがヘビー・ローテーションだった。

 ほぼアルバムを揃え、「さあこれからガッツリとビートルズとの付き合いがはじまるぞ」と思っていた矢先だった。ジョン・レノンの銃殺のニュースが飛び込んできたのは。夕刊で知ったと記憶している。しかもその日の夕方は雨だったことも絵面として脳裡に刷り込まれている。当時の私のまだペーペーのビートル・マニア。そんな私でもずっしりと心に重りを押し込まれたように気持ちで沈んでいった。2ヶ月前に発表されていたジョンのアルバム『Double Fantasy』もFMでアルバムごとエア・チェックしてよく聴いていただけに、「Starting Over」のイントロの「りん」様の音の暗示するものに畏怖したものだった。

 ちなみのこの10年後の冬、私はニューヨークのセントラル・パーク前のダコタ・ハウスの前に立った。

 私のビートルズはかくの如く、1980年がはじまりであり、同時にある種の終わりでもあったのだった。はじまった途端に封印されてしまった。

 先の「軽音楽をあなたに」の特集は英国版のオリジナル・アルバムをオン・エアしてたのだと思う。『Magical Mystery Tour』はなかった。このアルバムは翌年、誰かから借りて聴いた。誰だかは覚えていないことにする。で、これが見事に自分の当時の音楽的ツボにはまった。以降しばらくはこのアルバムが一番のお気に入りとなったのだが、少しずつ成長して高校になると中期・後期の作品に心惹かれる。その頃にはビートルズのあれやこれや、各メンバーの志向や葛藤なども知って、それが作品に反映されていることもわかってきていたから、より哲学的に聴くようにもなっていた。

 音楽的素養もローティーンの頃とは比べものにならないほど広く深くなっていたから、時代背景や世相などというものも作品を聴く上では重要なファクターになってきていた。

 だからどの時代のアルバムも好きで、たった8年でよくぞここまで変化し、実験し、世に問うてきたものだとあらためて驚愕してしまう。

 きっと、もしこの「名盤アワー」が長く続けば、ビートルズのアルバムは結局全部紹介することになるだろうと、すでに思うのである。

 問題は最初に何を紹介するか、なのだ。これは難問。ビートルズのアルバムでベスト1はどれって聞かれても、即答など無理。と言いつつ、すーっと浮かんでくるものはある。それが『Revolver』なのだ。ベスト1なのかどうかはわからない。けれどもそのジャケットが最初に眼前に現れてくる。そして「Taxman」のイントロ部のカウントのささやきが耳に響いてくるのだ。

 

 

 

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無節操なくらいのバラエティに富んだ曲が並ぶ

 

 オープニングは「1,2,3,4,1,2」からはじまる「Taxman」。ジョージの曲で幕が上がるのだ。今回ヘッドフォンでじっくりと聞くと、思っていたよりも大胆にパートを左右に振っていると確認。左チャンネルに演奏。真ん中に声。右はタンバリンやカウベルなどのパーカッション。間奏のヘビーなリードギターは右で独壇場だ。この曲の例の印象的なリフはベースで奏でられ、最後にギターがユニゾンになる。ずっとギターはリフを弾いていると思っていたが。途中のポールのベースがはちゃめちゃに動く。

 2曲目は「Eleanor Rigby」。ポールの曲だが、ライナー・ノーツによれば詩の大半はジョンが書いたという。演奏はバイオリン、ビオラ、チェロのみの弦楽奏。弦独特の切れとスピード感がある。ポールのボーカルはサビのみ中央に来る、あとは右チャンネル。エンディング前の「I look at all the lonely people」のポールの声は左。昔ラジオかなんかで「father McKenzie」が「ハザマ・ケンジ」に聞こえると言ってた奴がいた。不遜。しかしもうそのようにしか聞こえなくなった。聞くたびにその字面が過ぎる。ストリングス・アレンジはポールとジョージ・マーティン

 次の「I’m Only Sleeping」はジョン。ライナー・ノーツによれば、「その、哲学的でさえある瞑想の世界は、今日のジョンに見られる実践的な生活態度に通ずるものがあり、彼の根本的な思想の背景を思わせる」とある。2番の歌詞を見てみる。

 

 Everybody seems to think I’m lazy

 I don’t mind I think They’re crazy

  running everywhere at such a speed

 Till they find there’s no need(there’s no need)

 Please don’t spoil my day

  I’m miles away and after all

 I’m only sleeping

 

 みんな僕をなまけ者と思ってるらしい

 僕はちっとも構わないさ そんな連中こそ

  どうかしてるんだ そこら中すごい早さで走り回り

 結局そんな必要がないって気がつくのさ

 お願いだから僕の一日をめちゃくちゃにしないで

  まだぼうっとしたままなんだから

 僕はただ眠っているだけさ

 

 確かにジョンの思想の一端という感じがする。サウンドはドラム、ベース、アコギの気だるいフォーク・ロック。ところどころで入るエレキは例のテープ・エフェクト。これがサイケに聞こえる。ジョンのあくびらしきものも収まっている。

 そして4曲目にジョージの問題作、「Love You To」。シタールやタブラをフューチャーしたインディア・ポップとも呼べる怪作だ。中1のときは正直理解不能、いいとは思わなかった。しかし年を経るにつれ、少しずつその快さに気持ちが浮ついていった。ジョージ自身がシタールを弾いており、タブラの音でトリップ。よくぞこんな曲を想起し、まとめたものだ。ちなみにシタールは前作『Rubber soul』に収録されている「Norwegian wood(This bird has flown)」でも使用されているが、「Love You To」のほうが濃厚、インドそのものである。

 その次はもはやスタンダードとも呼べる「Here There and Everywhere」。「いつでもどこでも君と一緒」というラブ・ソングで、ポールの歌い方も実に優しく、甘い。この曲、キーボード類が一切入っていないことに今更ながら気づいた。ドラム、ベース、エレキ・ギターが最低限の音を刻んでおり、重厚なコーラスが空間を埋めている。

 A6にリンゴの「Yellow Submarine」。波の音やあぶくの音などのSEを楽しんで入れている光景が目に浮かぶ。パーティのようなSEとバック・ボーカルにはスタッフや友人が参加。ストーンズブライアン・ジョーンズの名もある。カラフルに聞こえるサウンドだが、意外と音数は少ない。スネアの抜けが非常にいい。

 A面最後はジョンの「She Said She Said」。「彼女は言うのだ、死ぬってどんなことか、悲しみってどんなことか、私は知ってるのよ」といったような歌詞。ミドル・テンポのロックで、ライブで映えそうな曲。シタールっぽい響きのギターが曲を支配している。ポールのベースもブンブンいっている。ドラムもトリッキーなプレイを随所に見せる。リズム隊は左チャンネル、ギターは左、ボーカルが中央という配置。

 

 

 

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『Revolver』から1曲と言われればサイケ極まる「Tomorrow Never Knows

 

 B面は牧歌的なポールの「Good Day Sunshine」から。普通すぎて当時は流し気味に聴いていた。これはこれで味があるが、本作に並ぶクセの強い曲たちの中に入ると、やはり印象は薄いかな。右チャンネルのピアノの低音は気持ちいい。左はリズム隊。ギターは入っていない。

 だがその次の「And Your Bird Can Sing」はとても好きだった。ツイン・ギターのフレーズのかっこよさ、独特な動きのポールのベース、疾走感があった。よくギターで弾いたものだ。左チャンネルから聞こえるリンゴのハイハットはなんと四つ打ちだ。右のおそらくタンバリンと思われるリズムは複雑に刻んでいる。ライナー・ノーツに「ジョンにしてみると物足りなさが残るらしい」とある。突きつめようとすれば確かにもっと行けるかも知れない。

 B3はポールのバラード「For No One」。クラビコードとフレンチ・ホーンというおしゃれな組み合わせで「愛の影もない涙」と歌う。バックの音のせいか、ポールの声がリアルに聞こえてくる。本作はサイケデリックなアルバムとして名高いが、いやいやポールのバラードに佳曲が多いのも隠れた魅力となっている。この曲のほか「Eleanor Rigby」、「Here There and Everywhere」とビートルズを代表するバラードが収まっていることで、アルバム全体の「重し」ともなっているようだ。ジョンは「ポールの書いた曲の中でもっとも好きな曲のひとつ」と言っている。

 B4はジョンの「Dr. Robert」。比較的オーソドックスなミドル・テンポのロックンロールなのだが、途中のブレイク部分のコーラスがクッションになり、より「らしさ」を醸している。ここは「ポールの協力を得て」完成させたとある。

 そしてジョージの「I Want To Tell You」。ギターのリフが印象的で、ほぼ全編コーラス・ワークに彩られている。主役は三連のピアノ。リード・ボーカルのジョージはずっと右側にいる。ここに来てジョージのジョージたるを確立してきたような曲。本作に収められたジョージの3曲は、どれもタイプの違った曲で、ソング・ライターとしての幅が大きく広がった。

 そしてホーン・セクションがゴージャスなご存知「Got To Get You Into My Life」。ホーン・アレンジはポールとジョージ・マーティン。歌詞は「突然出会った君が僕には必要なのさ、ずっと、1日も欠かさずに」といったストレートでケレン味のないもの。本アルバムにおけるポールの詩はどれも素直で実直なのだが、この曲の詩にはジョンとジョージも協力しているという、意外だ。のちにEarth, Wind & Fire がカバーし、そこはホーンの大本山、見事にモノにしたアレンジを施している。

 そしてアルバムを閉めるこの「Tomorrow Never Knows」が、私にとっては何と言っても『Revolver』のカラーを、永遠性を決定づけている。おそらく、多くの人がそうなのではないだろうか。

 シタールからはじまり、ドラムとベースは中央でワン・コード、延々とループ。ジョンのボーカルは最初は中央と右のダブル・トラック。そして左と中央には大胆にテープ・エフェクトが施されたおそらくギター。ギターには聞こえないけど。これがまったく前衛的に随所に現れる。間奏のギターはきちんと弾いているのか、手が加えられているのか。とにかくスリリングなのだ。目が回るのだ。いろいろな色が混ざり合っているのだ。で、最後はホンキートンク・タッチのピアノがちょっと入ってエンディング。

 凄まじい曲だ。はっきり言って、ラリってる。ジョン自身が言っている。

ラバー・ソウル大麻アルバムで、リボルバーLSDアルバムだ」と。

 このアルバムのレコーディングがはじまる前に、ジョンとジョージはLSDを体験した。その後、ポールも誘ったが、ポールは断ったという逸話もある。

 歌詞もまた超然としている。全部掲載しよう。

 

 Turn off your mind relax and float down stream

 It is no dying

 It is no dying

 

 Lay down all though surrender to the void

 It is shining

 It is shining

 

 That you may see the meaning of within

 It is speaking

 It is speaking

 

 That love is all and love is everyone

 it is knowing

 it is knowing

 

 When ignorance and haste may mourn the dead

 it is believing

 it is believing

 

 But listen to the colour of your dreams

 it is not living

 it is not living

 

 Or play the game existance to the end

 Of the beginning

 Of the beginning

 Of the beginning

 

 

 意識を離れ、安らかに流れに身をゆだねてみる

 それは「死」ではない

 それは「死」ではない

 

 横たわり、空間に身をまかせると

 それは輝きを放つ

 それは輝きを放つ

 

 そうすれば自ら内含される意味がわかろう

 それは話している

 それは話している

 

 愛こそすべて、愛は存在

 それは知っている

 それは知っている

 

 無知なるものと性急さが死者をなげく時

 それは信じている

 それは信じている

 

 しかし夢に耳をそばだてよ

 それは生きている事ではない

 それは生きている事ではない

 

 あるいは存在から無へのゲームのはじまり

 そのはじまり……

 

 もうそのまま味わうしかない。これがこの時期のジョン。しかしこれらが少しずつ能動的になって後期のジョン、解散後のジョンを作り上げたとも言えるような気がする。

 いや、あとにも先にもこんな曲、誰も書けない。名作である。

 

 

 

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ジャケ裏のこの写真がかっこよすぎて、部屋に飾ったものだった



前期と後期を分けるターニング・ポイントの作品、ライブからレコーディング志向へ

 

 

 ビートルズの8年のうち、前半4年はかなりのライブをこなしていたが、後半4年はまったくライブは行っていない。その境にあるのが本作である。実験的なレコーディングをはじめたのでライブでの再現が難しくなったことや、メンバー間でライブへの情熱がなくなったというだけでなく、スケジュールの過酷さにうんざりしていたり、ライブの機材面での不満があったり、あるいはツアーを行うことでファンが殺到し、身の危険を感じるようになったり、ファン自身が危ない目に遭ったりと、ネガティブな面が一気に噴出してきたのだった。

 本作のレコーディングが終わったのが1966年6月20日頃。つまりこの『Revolver』制作直後に来日し、武道館公演を行っていることになる。

 ビートルズは東京滞在時、滞在する東京ヒルトンホテルに事実上の缶詰だった。そんなことまでして世界を回ることに疑問を感じていたという。当然だろう。

 英国での本作発売は8月5日だ。ビートルズの最後のライブは8月29日のサンフランシスコ公演だから本作発売後となるが、気持ちはステージではなくスタジオにあったのだろう。そしてスタジオ・ワークに音作りの楽しさや可能性を感じながら制作したのが翌年の『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』なのだった。

 ライナー・ノーツのヘッド・コピーは、

「ジャケット、詩そして音、その全てにアートの香りが溢れているビートルズの頭脳的傑作集」

 アートの香りで、頭脳的傑作。1966年当時の音楽状況や、その制作技術を考えれば言い得て妙。流行りはじめたサイケデリックな芸術をビートルズが取り込んだことにより、サイケが一気に市民権を得ることとなったという話もある。

 アルバム・ジャケットもまたこれまでにない「アート」と言える。メンバーの顔の線画に目だけ写真を切り貼りし、そこに無造作にいくつかのメンバーの写真を散らしたモノクロタッチのジャケット。制作したのはドイツのクラウス・フォアマン。彼はビートルズがデビュー前にハンブルグでライブを行っていたときに知り合い、以降長い付き合いとなった。デザイナーであり、ベーシストでもある。『Revolver』のアート・ワークは1967年グラミー賞の「最優秀レコーディング・パッケージ賞」を受賞している。1996年に発表された「The Beatles Anthology」のジャケット・デザインも彼だ。

 2003年版の『ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・ベストアルバム500』では3位、2020年版では11位となっており、2003年の紹介文の中で「they’d already entered another word」、「彼らはすでに別世界へと入っていった」とある。

 当時発売後は米英のみならず、西ドイツ、オーストラリア、スウェーデンでチャート1位を獲得。日本で発売されたのはかなり後のこと。当時は英国版がそのまま他国でも発売されるということはあまりなかったらしく、米国版はすでに別の形で販売されていた3曲を除いた全11曲で構成された。

 英国の『レコードコレクター誌による 100 Greatest Psychedelic Records』ではイギリスチャートで1位。やはりサイケの代表のようなアルバム。私もずっとそう思っている。

 だが今回、改めてじっくりとアルバムをリピートしてみて「あっ」と思ったことがある。多くの実験が施されてカラフルなイメージのあるアルバムなのだが、思ったよりも音数が少ないのだ。ビートルズ自体の演奏は極めてシンプル。そして何よりもビートルズ独特のコーラス・ワークが、このアルバムにおいてはより際立っているように感じられたのだ。

 ついついサイケだLSDだとレッテルをつけて聴きがちなアルバムなのだが、その根底には変わらぬコーラス・ワークの秀逸さが支えている。それが『Revolver』なのだった。こうしたカラーはここから後期へ向かっていくにつれ少しずつ薄れていく。というか形を変えていく。サウンドのほうの幅がどんどん広がっていって、そちらに重きが移っていく。やはり本作は前期と後期の過渡期、端境期のアルバムなのである。

 

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おまけに帯付きも。この帯にも愛着は大きい。

 

Revolver

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Revolver [12 inch Analog]

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#008『Collection』Another PSY•S[saiz](1987)

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図鑑のようなジャケットは今でも大好きだ。これはのちに廉価で再発されたCD。

 

『コレクション』アナザー・サイズ

 

sideA

1. Wake Up

2. ドリーム・スープ

3. 本当の嘘

4. ビー玉坂

5. Woman・S

sideB

6. サイレント・ソング

7. 絵に描いたより Pictureness

8. 風の中で

9. 私は流行、あなたは世間

 

[PSY•S]

松浦雅也 : キーボード、ピアノ

安則まみ(チャカ) : ボーカル、コーラス

 

[Another PSY•S]

鈴木賢司 : ギター

高橋佐代子(from ZELDA): ボーカル

島崎夏美(from Chirorin): ボーカル

安部隆雄 : ギター

ゴン・チチ : ギター、ボーカル

村松健 : ピアノ

杉林恭雄(from Qujila): コーラス

いまみちともたか(from Barbee Boys): ギター

沖山優司(ex Juicy Fruits): ベース

楠均(from Qujila): ドラムス

久保田洋司(from The Ton Nan Sha Pei): ボーカル

清水伸吾(from The Ton Nan Sha Pei): コーラス

楠瀬誠志郎 : ボーカル、コーラス

 

 

Produced by Another PSY•S

 

 

 

今思えば垂涎のメンバーが顔を揃えていた、NHK-FMの「サウンド・ストリート」

 

 1970年代の終わりからおよそ10年間、NHK-FMの平日ほぼ22時台(時期によって開始時間が少しだけ変わっている)に「サウンド・ストリート」という番組があった。曜日ごとに違うDJが番組を担当し、その人選も実に個性的、同時代的で、今思えば奇跡のようなメニューであった。私は1982年くらいから聴きはじめたと思う。

 1983年の各曜日のDJを挙げると、月曜日が佐野元春。「元春 RADIO SHOW」のジングルが今でも頭の中で鮮明に響く。活動休止してニューヨークへと旅立ったあとも、現地で録音するというスタイルで番組を続けていた。いわば、傑作『VISITORS』制作への過程を番組は克明に伝えていたということだ。全部聞き返したい。

 火曜日は坂本龍一。YM0後期から散会後ソロ作を多く発表していた時期に当たる。番組恒例の「デモテープ特集」ではリスナーの宅録を募集して、教授も唸りつつ聴く場面があったりした。槇原敬之やテイ•トウワなども投稿、デビューの足がかりとなったようだ。

 水曜日は甲斐よしひろ。ちょうど甲斐バンド解散の時期に重なっており、複雑な心境を本人の口から聞ける貴重な機会であった。ニューヨークの話が多かった気がする。ボブ・クリアマウンテンとか。パワー・ステーションとか。

 木曜日は山下達郎。こんなに早口な人なんだ、とこの番組で初めて知った。現在も放送しているTOKYO-FMの「サンデー・ソング・ブック」と似たような(というかほぼ一緒)内容で、オールディーズ中心の選曲。かなり勉強させていただいた。

 金曜は音楽誌「ロッキン・オン」の渋谷陽一。編集者のわりに歯に衣着せぬ物言いだったのを覚えている。

 錚々たるメンバーである。40年近く経った今も、みなさんまだ現役の第一線。高校生だった自分に「もっと真剣に聞いておけ」と言ってやりたい。今なら一言一句漏らさないくらいの気持ちで聞くだろう。

 共通するのが、みんな媚を売らないこと。万人受けするようなことは言わないし、する気もない。自分の興味を番組でも追求する。と言ってリスナー不在ではない。同好の士に対して話しているような感じだ。それもまた良かった。むしろ世界がどんどん広がっていった。同世代の方なら、もう一度聞きたいという思いは一緒だろう。

 そして1986年、火曜日の坂本龍一の後釜として登場したのが、PSY・Sの松浦雅也だった。これまた今でいうニッチな人選。

 PSY・Sはキーボードの松浦雅也とボーカルのチャカこと安則まみのポップ・ユニット。二人とも大阪の産。

 1980年代半ばくらいまでは坂本龍一が確立したシンセサイザーサウンドを核としたバンドやユニットが一気に出てきた。新しいジャンルであり、方法論であった。世界の冨田勲が分け入った道に坂本が花を咲かせていき、そこになった実をかじって育ったアーティストが増えはじめてきていた。

 そのひとつがPSY・Sだったと言える。従来の形式をかなり消化した上でのポップ・ユニットであった。

 デビューは1985年。かなり早い時期に私は何かで聴いた。おそらくラジオ。それは「新しいポップ」だった。それからほどなくして発表された「Woman・S」で確信したのだった。これは猛毒だと。

 松浦雅也の革新的なアレンジと音色。それでいて尖ってるばっかりでもなく、染み渡るポピュラー・ソングとして心地よい。チャカのボーカルは並じゃない。一気にご贔屓となったのだった。

 その頃の私は浪人生。一応予備校には通っていたが、試験の2~3ヶ月くらい前になると、ほとんど部屋にこもって相当に勉強していた。人生で一番勉強した数ヶ月。一日が24時間ではなく、眠くなるまでひたすらやって、意識を失うようにバッタリと寝込む。ある程度の睡眠をとったらまたひたすらガリガリ。寝て起きての周期が24時間ではなかった。30何時間というサイクル。

 そんな中で唯一の精神解放はやはり音楽を聴くことだった。月に数度レンタル・レコード店へ行って、気になるアルバムを数枚借りてくる。部屋に戻って、ターン・テーブルにレコードを静かにセットし、針を置く。まだ知らぬ音世界が部屋中に鳴り、響く。たったこれだけのことが、極限近い精神の混濁を回避させてくれたのだ。

 で先の「サウンド・ストリート」を聞くことも同様の効果をもたらした。ひととき、別世界へと遊ばせてくれた。

 その「サウンド・ストリート」の火曜日、松浦雅也は番組内でとある企画を立ち上げた。毎月ゲストとともにマンスリー・ソングを作ろうという。聞くほうは大いに楽しみなのだが、関係者にとっては相当に面倒な企画である。若き才能のあり余る情熱と創造欲がなせる技。

 製作されない月もあったが、それでもほぼ1年間、毎月楽曲を完成させて番組でon airした。聴くほうも何が出てくるかと結構ドキドキしながらラジオを前にしていた。

 それらのマンスリー・ソングと、番組用にアレンジし直されたりしたPSY・Sの既発表曲をまとめたのがこの『Collection』である。以上のような経緯で作られたから、「Another PSY•S」なのだろう。

 アルバムとしてまとめられて発表されたのが1987年2月26日。多分この日はどこかの大学の入試を受けていたはず。3月になって、何とか爪の先数ミリで引っかかった大学に通うことが決まってから、ゆっくりと聴いたのだろう。この時代の個人的な空気がいっぱい詰まったアルバムである。だからPSY・Sのオリジナル・アルバムを紹介するよりも前に、このアルバムを持ってきた。何とも不安定な1年の私の内っ側が垣間見られる。

 ここまで取り上げてきた7枚の名盤は、いずれの盤も衆人が頷く歴史的1枚だった。だが今回は初めて「極私的」名盤を取り上げてみる。いや、そんな言い訳なしでも、傑作なのです。

 

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参加アーティストの写真が小さすぎて、老眼の目にはチト厳しい。

 

 

「ビー玉坂」は私にとっては唱歌「ふるさと」に勝るとも劣らず

 

 松浦雅也サウンド・ストリートのオープニングが1曲目の「Wake Up」。ショート・バージョンとクレジットされているが、確かに短いが、ほぼオリジナル・バージョンといってもいい。PSY・Sのセカンド・シングルのB面に収められた曲で、これは12インチ・シングルだった。LPサイズの30cmのシングル。懐かしいな。

 松浦氏はフェアライトを駆使して初期のPSY・Sサウンドを構築しているのだが、この曲はその代表のような曲ではないだろうか。冒頭サンプリングのボーカル、アタックの強いピアノ・コード。だがよく聴けば、アレンジはそこまでは凝っていない。ビートに引っ張られながら、わりと朴訥なチャカのボーカルが乗っかっている。

 間奏のギター・ソロは鈴木賢司。少し前からバカテク高校生として一部で注目されていたが、その後すぐ名前を聞かなくなった。と思ったらシンプリー・レッドのメンバーとなっていた。恐ろし。私は高校生時代のミニ・アルバムを持っている。その後のPSY・Sのアルバムにも彼は結構参加している。

 作詞はチャカ、作曲は松浦氏。

 2曲目は1986年9月のマンスリー・ソング、「ドリーム・スープ」。イントロはピアノのアタック音を切って和音を立ち上げてくる、ギターで言うところのバイオリン奏法のような音が印象的。そこにパワー・ステーション的ドラムがデリカシーなく入ってくる。このあたりの音作りは80代中期的。好きだ。さらにベースとアコギのカッティング。わりと音数は少ない。ボーカルはZELDAの高橋佐代子。うわ、絵面まで一瞬にして蘇る。コーラスにChirorinの島崎夏美とチャカ。ギターは安部隆雄。この人は知らず、今回調べてみると、ベーシストでアレンジャー、プロデューサー。一時子供ばんどBarbee Boysにも在籍していたという。作詞は高橋佐代子、作曲はムーンライダース岡田徹と松浦氏。編曲が岡田、安部、松浦の三氏で「AMOR」とクレジットされている。なるほど、確かにムーンライダース的冒険サウンド

 このアルバムの中では一番当時の匂いがきつい曲だと思う。それだけにあっという間にフィードバックさせてくれる。二十歳の頃に。

 3曲目は1986年6月のマンスリー・ソング、「本当の嘘」。ゴンチチと松浦のタッグだ。雰囲気としてはもろにゴンチチ。軽いラテン・タッチ。バックでのフワフワしたキーボードが松浦的。作詞がチチ松村、作曲がゴンザレス三上、編曲が松浦氏。アコギの音が実にクリアでいい。もちろんゴンチチの二人。声も含めてのゴンチチ・ワールドに、チャカのコーラスは若干違和感ありか。独特の世界観を持っているアーティストに食い込むのは、なかなか難しいのだろう。ゴンチチは、ゴンチチなのだ。

 そして4曲目の「ビー玉坂」が、本アルバムにおける私のもっとも思い入れの強い曲である。かれこれ35年、よく聴いてる。事あるごとにずっと聴いてる。1986年11月のマンスリー・ソング。ピアニストの村松健と松浦氏の連弾、ツイン・ピアノの叙情的な曲だ。作曲は松浦氏、編曲は二人の名がクレジットされている。二人で即興で弾きながらまとめていったのだろう。

 なんと言うか、幼いながらも切ない気持ちを感じた子どもの頃を喚起させるようなメロディなのだ、私にとって。童謡に近い。「ふるさと」よりも染みる。昔からの日本的なコード進行は、玉置浩二が作るバラードに雰囲気が近い。こういうのに弱いのだ。

 また、スタジオの空気感までもが封じ込められて録音されている感じがいい。おそらく一発撮りに近いのではないか。

 この頃は松浦氏はテクノに近い人、シンセの人と思っていたので、この曲には驚かされた。その多才さに恐れ入った。

 A面最後は「Woman・S」のボサノヴァ・バージョン。この曲のオリジナル・ヴァージョンを初めて聴いたときは、カッと目が見開いた。なんというアレンジ、なんという構成、一気に引き込まれた。ポップスのある種の極みとまで思った。それがボサノヴァ・タッチに優しいアレンジとなっている。これもまたいい。

 作詞はパール兄弟の佐伯健三、作曲は松浦氏。クレジットにはボーカルにチャカと、コーラスにQujiraの杉林恭雄とだけあるので、松浦氏がオリジナルに手を入れて別ヴァージョンにまとめたのか。

 で、このボサノヴァ・バージョンはマンスリー・ソングではない。それではサウンド・ストリート内で使用されていたかというと、これが覚えていないのです。でも、このアルバムに収録されているということは、なんらかの形で番組に絡んでいたのだと思う。

 

 

終わり2曲で清冽な気持ちにさせられ、深く余韻の中に沈んで放心した

 

 B面は「サイレント・ソング」からはじまる。本アルバムからの唯一のシングル・カット曲。確かに一番当たりがいい曲である。ライヴでも盛り上がること請け合い。1986年10月のマンスリー・ソング。

 ギターはいまみちともたか。当時は彼のギターはあまりピンとこなかった。うまいとも思わなかった。今聞くと、なるほどちょっとU2のジ・エッジの感じに似てる。その後、この手のギターはあまり出てきていない。その意味からすれば、個性的で貴重なギタリストである。

 いわゆる、バンド・サウンドである。松浦氏の「作り込み」が一番薄い曲だ。ドラム、ベース、ギターが屋台骨となって、チャカの声を支えている。

 ドラムはQujiraの楠均。当時はあまり馴染みがなかったが、21世紀になってキリンジのサポート・メンバーとなり、その後Kirinjiと体制が変わったあとは正式メンバーとなった。メイン・ボーカルを取る曲もあった。憎めないキャラの持ち主である。

 ベースは沖山優司。「Juicy Fruits」の元メンバーで、PSY・Sのライヴでも欠かせない存在だった。メガネの優等生的みてくれだが、ベーシストとして侮れず。

 作詞はチャカ、作曲はいまみちともたか、編曲は松浦氏。

 B2は「絵に描いたより Pictureness」。作詞・作曲・ボーカルが、The 東南西北の久保田洋司。コーラスに同バンドの清水伸吾とチャカ。インストルメンタルはすべて松浦氏。The 東南西北は確か広島出身で事務所はアミューズだった。1stアルバムだけ聞いたことがあるが、リバプールサウンドの毒気のないバンドだった。デビューがほとんど高卒直後くらいだったように覚えている。青さも売りだった。

 速いが抑揚のないロックンロール。自身のバンドでよりは怪しげな雰囲気を持たせて歌っている。この曲は印象が薄い。当時の自分の好みの音ではなかった。1986年7月のマンスリー・ソング。

 B3は「風の中で」。ボーカルと多重録音のコーラスは楠瀬誠志郎。綺麗な声だ。作詞はチャカ。作曲・編曲とインストルメンタルは松浦氏。1987年1月のマンスリー・ソング。

 この曲は猛烈に好きだった。3/4の拍子に和声の心地よさ、イントロはなく楠瀬の独唱からはじまり、ピアノの音が重なってくる。今回改めて聞いたら、ピアノのバックはちょっとJAPANの「Nightporter」風な部分もある。JAPANのほうはちょっとおどろおどろしい曲調だが、こちらは実に清々しく、目の前が開けていくよう。

 

 ふりむけば いつでも きみの面影が ただ

 風の中 何にも 言わずに 輝いている

 

 この部分のバックのコーラスの「フーフッ」の浮遊感が今も時折頭の中で鳴る。コーラスは女声に聞こえるが、クレジットは楠瀬の名だけ。でもこの人ならこんな声も出せるか、と理解。

 この曲にも1987年春の空気が封印されている。あのときのなんとも言えない心境にたちどころに戻ってしまう。音楽はすごい。

 アルバムを締めるのは、サウンド・ストリートのエンディング・テーマでもあった「私は流行、あなたは世間」。オリジナルはデビュー・アルバムである『Different View』に収められている。オリジナルのほうが番組の最後に流れていたのだが、本アルバムに収められているのは別バージョン。

 編曲を溝口肇が担っているので、当然演奏にも加わっていると思っていたのだが、今回ライナー・ノーツを見て驚いた。弦楽器は飛鳥ストリングス、ピアノは重美徹で、溝口肇の名はない。編曲のみなのだった。

 しかしこのストリングス・アレンジは美しく気持ち良い。聴いていた時期が春先で、進学が決まり、日々暖かくなっていくという中だったので、この先に伸びていく道はきっと暗いものではない、という気に拍車をかけてくれた、演出してくれたようなそんな曲。

 オリジナルの、機械的なリズムにチャカの声が乗っかるバージョンもかなり好きなのだが。そう、本アルバム収録のはインストなのです。

 でもこの曲はマンスリー・ソングではない。何かしらサウンド・ストリート絡みで作られたバージョンなのだろうか。今にして知る由もなし。

 

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歌詞の上に描かれた線画がまた、とても高尚に感じられる。

 

ご贔屓たちは当時も今も思ってる、「PSY・Sの評価は低すぎる」

 

 松浦雅也サウンド・ストリート、マンスリー・ソングを集めたこの1枚。かなりの傑作だと思っている。番組でこの企画を立ち上げたのはまだデビュー1年ほどの頃。ソニー系のアーチストを中心に、それでも松浦氏こだわりの人選で作られていった曲たちなのだろう。

 残念なのは、1986年12月のマンスリー・ソングであるSIONとの「冬の街は」が収録されていないこと。この曲も無二の出来栄えなのだが、当時はレコード会社との関係で入らなかったらしい。ただのちに、PSY・Sのライブを集めた『TWO SPIRITS』ではライブ・ヴァージョンが収められた。

 基本、打ち込みの松浦氏がコラボでまとめたアルバムだ。当時、シンセを操る人はどちらかと言えば没入型で、他人との接触が苦手というタイプの人が多かった。おそらく、松浦氏もどちらかと言えばそうだったのではないかと思う。

 でも、その後のPSY・Sの仕事を見ていくと、そんなことは全然ないのだ。

 デビュー当初は打ち込みサウンドテクノ系ユニットに分類されるのだろうが、その後はアルバムごとにコンセプトや手法を変えていき、ときにはアコースティックでアルバム1枚を完成させたりもしている。

 また、レコーディングでは松浦氏の打ち込み中心でも、ライブでは「LIVE PSY・S」と称して、すべてバンド・メンバーの生演奏ということを基本としてステージを行ったりもしていた。ちなみにライブでの振り付けは南流石で、本人もほとんどメンバーの一員として踊っていた。

 多くの試みを見せてくれたPSY・Sも、10年でピリオドを打つ。天才・松浦と超絶ボーカル・チャカのユニットは、それほどのセールスには至らなかった。

「Friends or Lovers」や「電気とミント」、「Angel Night~天使のいる場所」といったヒット曲はあったが、世間の評価はその実力にはまったく伴っていない。

 時代がPSY・Sに追いつけなかった、という説もある。

 純粋に音楽的な評価が得られなかった。ビジュアルも含めたセールス・ポイントのプラス・アルファが足りなかった、という声もある。

 レコード会社のソニーに、PSY・Sの売り方がわからなかった、などというまことしやかな風説まで聞こえてくる。

 そんなことはどうでもよろしい。アルバムを通して誠実に聴けば、PSY・Sの唯一無二な音世界が分かるはずなのだ。

 まあ、セールスだけがものさしではない。いやむしろ、セールスというものさしを過信してしまえば、見えてこなくなってしまうもののほうが多いかも。

 今でもPSY・Sのアルバムは入手可能。一度じっくりと聴いてみてほしいものだ。自分の耳に素直に従うことが一番。

 最後にひとつ。PSY・S解散後の松浦氏の仕事として最も知られているのが「パラッパラッパー」だ。いわゆる音ゲーのひとつのスタイルを確立した「作品」としてその名を残している。

 このゲームを企画したのが松浦氏なのである。もちろん音楽も担当しているが、企画し、プロデュースしているわけだから、松浦氏の「作品」といっても何の問題もないのだ。

 PlayStationのソフトとして発売されたのが1996年、つまりPSY・S解散の翌年だ。パラッパやりたくてプレステ買った友人を私は何人か知っている。私もこのゲームにはハマった。

 ゲームの面白さはもちろんのこと、ロドニーの描くキャラクターの愛らしさ、そしてペラペラな彼ら。何もかもが規格外で唸らされたものだ。

 そして何と言っても音楽の完成度の高さ。ミュージシャンである松浦氏だけに、ここは本領発揮。曲だけ聴いていても心踊るのだ。私はこのサントラも購入して、よく聴いていた。

 その後の松浦氏はどちらかというとゲーム業界のほうで活躍するようになる。チャカはジャズ・ボーカリストとして活動を続けている。それを思うと、PSY・Sの10年間は、奇跡のような時間であったのだと改めて思う。残された財産はいつまでも触れることができる。今後もPSY・Sを聴き続けるだろう、私は。

 

 

 

 

 

 

 

#007『461 Ocean Boulevard』Eric Clapton(1974)

 

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「赤札」(NICE PRICE)は10代の貧乏人には救いの色だった。これで何枚の名盤を手に入れられたか。


『461 オーシャン・ブルーヴァード』エリック・クラプトン

 

sideA

1. Motherless Children(マザーレス・チルドレン)

2. Better Make It Through Today(ベター・メイク・イット・スルー・トゥディ)

3. Willie and the Hand Jive(ウィリー・アンド・ザ・ハンド・ジャイヴ)

4. Get Ready(ゲット・レディ)

5. I Shot the Sheriff(アイ・ショット・ザ・シェリフ)

sideB

6. I Can’t Hold On(アイ・キャント・ホールド・オン)

7. Please Be with Me(プリーズ・ビー・ウィズ・ミー)

8. Let It Grow(レット・イット・グロウ)

9. Steady Rollin’ Man(スティディ・ローリン・マン)

10. Mainline Florida(メインライン・フロリダ)

 

 

[Recording Musicians]

Guitar, Vocal, Dobro : Eric Clapton

Guitar : George Terry

Piano, ARP Synthesizer, Clavichord : Albhy Gluten

Organ, Keyboards : Dick Sims

Bass : Carl Radle

Drums : Jamie Oldaker, Jim Fox

Vocal : Yvonne Ellian, Tom Bernfeld

 

Produced by Tom Dowd

 

 

 

 

レイド・バックという言葉を先に知って、クラプトンに入り込んでいった

 

 エリック・クラプトンは何度も山を作ってきて、谷に落ち込んだギタリストと言えるかもしれない。ヤードバーズやクリームの若き日の栄光。薬物中毒でどん底を見て、その後1970年代中盤からの復活。1980年代は評価が分かれる。チャートにも登場するポップ・アーティストとして知る人も多いだろう。1990年代は幼子を亡くしたあとの悲しみのアンプラグド。そしてその後のブルースへの回帰。世代によってどの時代が核になるかが大いに異なり、だからこそ実に幅広い世代に聴かれているアーティストなのである。

 私の場合は、導入は桑田佳祐だった。

 1980年、中学生になった私は洋邦問わず貪欲にポップ、ロックのサウンドを求めはじめていた。その中心はラジオだった。レンタル・レコードはまだ黎明期で日本国内にごくわずかしかない。さりとてそうそうレコードは買えない。そうなるとラジオに頼るしかなかったのだ。

 当時のFMはステレオがだった。AMはモノラルだった。AMステレオ化はまだまだ先の話。それでもAMには個性的なDJの番組が多く、流行りの曲もよく流れたのでかなり聞いていた。FMは番組表を事前にチェックして、聴きたい(エア・チェックしたい)番組をピンポイントで聴いていた。

 当時、FEN(Far East Network=米軍極東放送網・今はAFNという)が関東では周波数810MHZで流れていた。FENに関してはいずれ項を改めてじっくりと思い出してみたいものだが、簡単に言えば在日米軍向けのラジオである。米国本土で番組をレコード化して空輸され、電波に乗せられていた。だから米国の音楽情報に何よりも早く触れることができる、洋楽ファンには捨て置けない放送局だったのである。

 だがいかんせん全編英語。話してることはほとんどわからず、流される曲を、ほとんど知らない曲をただひたすら聴いていた。

 ラジオ熱はさらに加速して、とうとう短波放送にまで手を出した。たまたま家にかなり立派な短波ラジオがあり、夜中にダイヤルをゆっくりと回して海外の放送局を探るのが楽しかった(夜のほうが遠くの電波を掴みやすい傾向があるのだ)。ハングルの放送はよく入ったが、ある晩ロシア語の放送をノイズの中にも受信した。そしてその放送局に受信確認の手紙を送ったのだった。

 なぜロシア語なのに放送局がわかったのかというと、当時は短波ラジオ専門誌があって、それを本屋で立ち読みしながら受信した周波数のメモと照らし合わせて、受信局を探り当てたのだ。

 なぜ手紙を出したのかというと、ベリカード(受信確認証)が欲しかったから。受信日時と簡単な放送内容を記して送ると、その放送局のベリカードを送ってもらえたのだ。専門誌には各国の放送局のベリカードを集めた特集などもあって、私もチャレンジしてみたくなったのである。その放送局のベリカードはきちんと届きました。中1の自分が自力で世界と繋がった気がして、その後しばらくはそのベリカードを眺めてはニタニタしていたのだった。

 ちなみにこのベリカードは、基本的には今普通に聞いているラジオ局でも発行しているところが多い。各局のキャラクターなどがデザインされたりと、集めはじめるとハマりそうだ。一部のテレビ局も出しているところがある。

 大いに話がズレ込んだ。

 中1の頃の確か木曜20時、いや月曜だったか、文化放送で「桑田だセーラーマン」という番組を放送していた。DJはもちろん桑田佳祐。まだサザンがビッグ・ネームでなかった頃。桑田も大学生気分が抜けきれていないような時期。自身の趣味の音楽を中心に流していて、そこで初めて出会ったアーティストも多かった。ボズ・スキャッグスEW&Fや、はたまた今剛まで。

 そしてある日の放送でクラプトンの「Let It Grow」が流れた。初めて聴いたときはおそらく相当に衝撃があったのだと思う。でも曲名を覚えておらず、この曲に再会してタイトルを知るのはかなりあとだ。それでもこの曲はずっと頭の中に残り、流れていた。

 またそれと同じ頃、ニッポン放送の23時台の平日15分の帯番組(だったはず)に「桑田くんと関口くん」という番組があり、タイトル・バックで流れていたのがクラプトンの「Wonderful Tonight」だった。関口くんというのはサザンのベースの関口和之。これも曲名とアーティスト名を知ったのは少しあとのこと。中1の23時台はもう深夜。布団に入って薄闇の中で聴く「Wonderful Tonight」に、冥界に入って行くような、とろりとしたような感覚に陥ったことを何となく覚えている。

 つまりこれらは音楽に目覚めた私の黎明期に蒔かれたタネみたいなものだ。

 桑田はこの頃ラジオでやたらと「レイド・バック」と言っていて、意味は分からずとも何となくこんな意味なのではないかなと想像しつつ、レイド・バック気分に浸っていた。意味は「のんびり」とか「ゆったり」です。

 なおこの1980年の夏にサザンは「わすれじのレイドバック」というシングルをリリースしている。カントリー調のせつない曲で、全然売れなかったけど好きな曲だった。

 で、当のクラプトンに出会うのは中学の終わり頃。もちろんそこに至るまでの「ロックの勉強」でエリック・クラプトンがどういう人で代表曲はこれとこれ、といった知識はあった。最初に手にしたのはソロになってからの1970年代のBEST ALBUM『Timeless Pieces』。最後に「Let It Grow」が収録されていて、「ああ、ようやく出会えた」とここでもやはりうち震えた。

 そして高校に入ってすぐの頃に『461 Ocean Boulevard』を買ったのだった。渋谷のタワーレコードで輸入盤。当時はまだ今のビルではなく、東急ハンズのちょっと奥の雑居ビルにタワーはあった。1階は「jeans mate」。ともにその頃は駆け出しの店だったが、今は双方業界をリードする存在になったな。向かいにあった吉野家にもよく寄った。

 すでにその頃、本アルバムは赤札の「Nice Price」だった。「Nice Price」、魅惑的な響きだ。輸入盤は、ロック・クラシックのアルバムを値引きして販売していたので、それを狙ってアルバムを吟味したものだ。大概の名盤は「Nice Price」であった。

 アルバム・タイトルの『461 Ocean Boulevard』とはマイアミに実在する(していた)住所で、クラプトンの自宅という説とスタジオという説がある。

 

 

 

なるほど、これがレイド・バックなのだなと身体のほうが理解した

 

 軽快なギターリフに跳ねるようなドラムが飛び込んでくる。そして軽いうねりを持ったボトル・ネックのフレーズが絡む。A面1曲目「Motherless Children」のイントロだ。アップ・テンポで軽妙なブルース・ロック。クラプトンのボーカルも無理ない程度のシャウトが時折入るようなソフトな唱法で、さらっとしている。

 

 Motherless children have a hard time when mother is dead, lord

 母のない子は苦難の道をゆく

 

 曲調のわりにシビアな歌詞の曲なのである。そのあとに「だから父は頑張る」、「姉も頑張る」と続く。クレジットには「Traditional」とある。

 次の曲がちょっと曰くあり。私の持ってるアルバムでは「Better Make It Through Today」なのだが、大概の盤は「Give Me Strength」なのだ。で、どちらが正解かというと、後者である。なぜこんなことが? と調べると、1975年に発売されたUS盤でこの2曲目がすり替わったという。「Better Make It Through Today」は翌年発表されたアルバム『There’s One in Every Crowd』に収録されている曲だ。では何故そのようなことになったのかというと、よく分からない。レコード会社の何らかの思惑なのだろう。

「Give Me Strength」はドブロ・ギターの個性的な音色とオルガンが印象的なカントリー・バラードの小曲。「Better Make It Through Today」もやはりアコギとオルガンのバラードなのだが、こちらのほうがちょっとせつない。間奏のソロはこれぞクラプトンと言えるスロー・ハンド。クラプトンのしわがれた声とオルガンが絡んで孤高感たっぷり。ともにクラプトン作。

 ストラトのカッティングが実に心地よい「Willie and the Hand Jive」は身体が揺れる。ボ・ディドリーのレゲエといった感じ。レイド・バック感満載。ある意味この時期のクラプトンの気分をよりよく表している曲かも。Johnny Otis作。

「Get Ready」はワン・コードのブルースと言えるか。ちょっと不安な空気感でYvonne Ellianとクラプトンが「Get Ready」と繰り返す。ソロらしいソロもなく、突然のように終わったあと「アハハハ」と(おそらく)クラプトンの笑い声が収まっている。二人の共作。

 そしてA面最後にBob Marleyの「I Shot the Sheriff」。この頃、レゲエが世界的に流行りはじめていたという。しかし復活クラプトンが歌うとは誰も想像できなかったのではないか。ましてや彼の代表曲のひとつになるなどとは。

 アレンジはBob Marleyのオリジナルに限りなく近い。それでも双方の楽曲の印象は相当に異なる。その一因はMIXにあると思う。Bob Marleyのほうは各楽器、かなり生々しく響いている。それだけにトレンチタウンの熱風や匂いを強く感じさせてくれる。一方のクラプトンのほうは、整っており洗練されている、まとまっている。このあたりはやはり録音技術スタッフの好みや個性、技術レベルが現れているのだろう。

 だからどちらが上とか下とかではない。私は両方好きだ。聴き比べて楽しめる。同じ曲で違う土地を旅している気になる。

 そして一番感じるのは、クラプトンの声域にこの曲はドンピシャはまっているのではないかという点。低音も高音もシャウトもすべてに無理が感じられず、ボーカルによどみがない。スムースに出ている。だからきっと、本人は歌っていてとても気持ちよかったのではないかと思う。それもこの曲のよさを引き出した大きな要因だったと思う。聴いているほうも気持ちいい。

 

 

この曲順のままライブで聴きたいと思うほど耳に馴染んだB面

 

 B面最初は偉大なるブルース・ギタリスト、Elmore Jamesの「I Can’t Hold On」から。スリー・コードのミドル・テンポのブルース。Elmore Jamesと言えばボトル・ネック奏法ということで、クラプトンも披露。本アルバムは総じてボトル・ネックの使用率が高い。

 次はカントリー調の「Please Be with Me」。これまた気分はレイド・バック。オールマンブラザーズバンドなどをサポートしたこともあるCharles Scott Boyer作。日本ではほとんど知られていない人。

 そして本アルバムで私にとっての最重要曲である「Let It Grow」。すでに聴いていたBEST ALBUM『Timeless Pieces』では最後に収まっていたのでその印象が強く、初めはB面3曲目という位置に違和感を感じた。だが、それもほどなく解消。次とその次への流れがたまらなくなったのである。それはまたあとで。

 

 Standing at the crossroads

 Trying to read the signs to tell me which way I should go

 to find the answer and all the time I know

 Plant your love and let it grow

 

 Let it grow, let it grow

 Let it blossom, let it flow

 In the sun, the rain, the snow

 Love is lovely, let it grow

 

 Time is getting shorter and there’s much for you to do

 Only ask and you will get what you are needing

 The rest is up to you

 Plant your love and let it grow

 

 Let it grow, let it grow

 Let it blossom, let it flow

 In the sun, the rain, the snow

 Love is lovely, let it grow

 

 愛を育てていこう、どんな過酷な状況にあっても(意訳)、というシンプルな歌詞なのだが、クラプトンはぼそぼそとした歯切れの悪い口調で歌う。それがこの曲の味わい。決してボーカルとも言えない、内向的な囁き。薬物中毒から立ち直りつつある時期ということも含めて考えると、かなり赤裸々な歌なのだ。悲しくも心は明るい兆しを得て、そこへと歩んでいきたいという意志を感じさせる楽曲なのである。

 この曲はLed Zeppelinの「天国への階段」と似てる、とよく言われる。ともに後半部分の半音ずつベース音が下がるあたりが極似しているというのだ。

 キーは異なるものの、その通り。ほぼ同じ。で、発表された時期もこれまたほぼ同じ。さりとて、お互いに示し合わせているとは到底思えない。同じ時期に同じフレーズ、アレンジが降りてきたとしか言いようがない。

 だが、そこに当てられたコードはまったく違っている。「天国への階段」のほうは素直にコードを当てているが、「Let It Grow」はちょっとひねててそれでいて唸らせられるようなコード進行となっている。そしてエンディングではそれが無限ループ。聴いていてもギターを弾いていても、トランス状態の手前にまで持っていかれる。トランス。薬物。クラプトンの体はまだ戻ってきてはいなかったのか。

 などと妄想が尽きない。とは言え、男の哀愁がたっぷりと注ぎ込まれたバラードは1970年代を代表する楽曲と言ってもいいだろう。

 一転、今度はクラプトンが敬愛するブルース・ギタリスト、Robert Johnsonの「Steady Rollin’ Man」のピアノのイントロ。本作の中では一番ブルース色の濃い曲と言えるが、ミドル・テンポなのでロックっぽくもある。「Let It Grow」のあとを軽くいなせるのはこんなタッチの曲しかない。両方とも映える。ちなみにRobert Johnsonのオリジナルは、ベタベタのブルース。

 ラストは「Mainline Florida」半音ずつ上がるギター・リフがたまらない。ここでもまたクラプトンは熱唱しない。「Motherless Children」同様、軽快でノリのいい曲なのだが、クラプトンのボーカルは力が入っていない。これもまたレイド・バック。サビ以外はギター・リフが延々ループしているのだが、これが気持ちいい。電子系の音のループではなく、ストラトのリフのループだ。キレキレだ。

 以上39分。レイド・バックでだれた印象を与えがちなアルバムだが、通して聴けばバラエティに富み、演奏も相当にレベルが高い。最初と最後はノリのいい曲という、世評とは少し異なることがわかっていただけるだろう。だから一度通して聴いてみてもらいたいのだ。

 

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裏と表で建物がつながっているんですね。その両脇にクラプトンがいる。



 

なんども針を落とし、なんども弾いて、悦に入った1枚

 

 本アルバムは10代の後半にもっとも聴いた。楽曲そのものを楽しむのはもちろんのこと、一番ギターのコピーをしたアルバムでもある。

 中学でアコギ、高校に入ってバイトして貯まったお金で最初に買ったのがエレキだった。中学時代はほとんどコードを覚え、抑え、弾きながら歌うことに終始した。エレキ購入後はいわゆるTAB譜の付いている譜面を見ながらフレーズやリフを覚えた。TAB譜というのは五線譜ならぬ六線譜、つまりギターの弦がそのまま譜面となっているもので、どの弦のどのフレットを抑えるかが線上に指番号の数字で置かれているというもの。だから一目瞭然。譜面通り、レコード通りにギターのフレーズを覚える完全コピー、いわゆる完コピすることが喜びであり、達成感なのだった。

 だが、ブルースやR&Bを聴いていくうちに、インプロヴィゼーション、即興演奏に興味を持った。興味というか、思いつきでギターのフレーズが弾けるようになりたいと思ったのだった。

 その教材としてうってつけだったのが、クラプトンの曲たちだった。

 3コードで自由に弾く、ブルーノート・スケールやペンタトニック・スケールを知り、それをマスターすると格段に「それっぽく」弾けるようになった。そこから発展して、たくさんのレコードでギター・プレイを聴いてフレーズの引き出しを増やしていった。

 そうしたベーズができて、『461 Ocean Boulevard』の各曲のリフや肝のフレーズはきちんと練習してマスターして、一部即効演奏など交えて合わせて弾くのが楽しかった。

 ここに収められた10曲すべて、おそらく今でも弾ける。

「Motherless Children」や「Mainline Florida」で疾走感を楽しみ、「Get Ready」や「Steady Rollin’ Man」では思うまま好きに指を動かす。「Willie and the Hand Jive」ではそれこそレイド・バックを堪能する。「I Shot the Sheriff」はギターを持てばいまだにウォーミングアップがてらカッティングする。レゲエはもはやカリブのみにあらず。

「Let It Grow」はもう、私にとって永遠だな。聴くのも弾くのも。

「スロー・ハンド」の異名をとったクラプトン。早弾きではないのだ。だから初級から中級へ向かうあたりで弾くにはうってつけだった。

 だけど、音符通り弾けるようになったとしても、そこから「味」を出すためには、これは単に弾けるようになるよりもはるかに難しい。「間違えずに弾けるようになった」から「味わいのあるフレーズを醸せる」に至る道は険しく遠い。だから何度でも繰り返し弾く。上手いとか下手とかではなく、弾いていて楽しければそれでもいいのである。そのうちに味わいが出てくる。

 クラプトンの曲は本アルバムのみならず、実に多くの時代の曲をコピーした。Blues Breakers、Yardbirds、Derek and Dominos、そしてソロ作品と。でも、アルバム1枚丸ごと練習したのは本アルバムだけだった、多分。そんなこともあって、愛着のある1枚なのである。A1からB5までずっと弾いているのである。悦に入る、というのはまったくこんなときなのだ。