ROCK、POPの名盤アワー

~ALBUMで堪能したい洋盤、邦盤、極めつき音楽遺産~

#012『LIVE ’73』よしだたくろう(1973)

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はにかんだような表情を見せるレコード・ジャケットは珍しいのでは

 

『LIVE ’73』よしだたくろう

sideA

1. 春だったね ’73

2. マークII ’73

3. 君去りし後

4. 君が好き

5. 都万の秋

6. むなしさだけがあった

7. 落陽

sideB

1. 雨が空から降れば

2. こうき心 ’73

3. 野の仏

4. 晩餐

5. ひらひら

6. 望みを捨てろ

 

[Musicians]

よしだたくろう : Vocal, E.guitar, Ac.guitar

石川鷹彦 : Ac.guitar, Banjo, Dobro, Flat mandorin

田中清司 : Drums

岡澤章 : Bass

高中正義 : E.guitar

常富喜雄 : E.guitar

栗林稔 : E.piano

松任谷正隆 : Hammond organ

田口清 : Ac.guitar

内山修 : Percussions

ウイルビーズ : Back ground vocals

村岡健、羽鳥幸次、村田文治、佐野健一、新井英治 : Brass section

新音楽協会 : Strings section

 

Produced by 吉田拓郎瀬尾一三

 

 

 

吉田拓郎はフォーク? いやファンクでR&Bなのです

 

 いや、秋から年末にかけては毎年多忙で、それはありがたいことなのです。だけど、当然趣味の時間は減る。ブログに費やす時間も取れなくなるのは、まあ致し方なし。で、その後もペースが戻らず、半年以上も放っておいてしまった。ひと段落して、書きかけのを仕上げようと。なんとなく書きはじめていて、そのままになっていたのは吉田拓郎。我が師のひとりと呼べる人。

 小学生時代、70年代後半。当然、吉田拓郎の名は知っていた。子供の雑誌でも名前が出てくるし、ラジオでも流れていた。「結婚しようよ」や「旅の宿」、「今日までそして明日から」、さらには「人間なんて」という曲を歌っていることは、情報としてはやたら目にし、耳にしていた。そういうすごい歌い手がいるんだな、という認識。でもテレビでは見ないし、謎の大物。

 リアル・タイムで聴いたのは1980年、中1のとき。「元気です」という曲だった。

 宮崎美子という九州の大学生が、木陰で水着に着替えるというただそれだけのCM、ミノルタのカメラの。「今の君はピカピカに光って」という曲をバックにブラウン管に映し出された15秒は、世間を釘付けにした。

 この曲は70年代初頭に「若き哲学者」とまで呼ばれた斉藤哲夫が歌っていたのだが、本人が作った曲ではなく、そういった曲がCMソングに使用され、ましてや水着の女の子のバックで流れ、そしてヒットしてしまったことは不本意だったという。

 拓郎も哲学者・斉藤哲夫の曲を弾き語りでカバーしている。

 この宮崎美子が主演した最初のドラマがいわゆる「昼帯ドラマ」で製作され、その主題歌が「元気です」だったのだ。普段は学校行ってるから当然見てないのだが、午前授業だったりしたときに何度か見た。それよりもラジオでよく流れていた。切なくも前向きで軽快なフォーク・ロックで、イントロのツイン・ギターが耳に残った。

 当時、フォークソングの譜面や楽譜を載せた小冊子が付録の雑誌があった。ギター・コードがついた歌本。中学時代は「新譜ジャーナル」や「GB」や「Guts」といったフォーク、ニューミュージック系の情報満載の雑誌で、新曲やニュー・アルバム全曲掲載とかでお目当のアーティストの曲があったりすると買っていた。ちょうどアコースティック・ギターを弾きはじめた頃だった。そこでも頻繁に拓郎の新曲が載っていた。でもまだ触手は動かなかった中学生。

 高校時代、友人の兄貴から拓郎の『アジアの片隅で』というアルバムを借りた。多少興味を持ちはじめていた。しかし非常にヘビーな内容に、のめり込むということはなかった。まだ少し時期尚早だった。

 高校3年の時が1985年で、拓郎が2度目のつま恋オールナイト・コンサートを行い、多くのアーティストが参加した大イベントだった。前記の音楽誌でも大々的にレポートされ、それをじっくりと読んだ。当時のライオン・ヘアーの拓郎が強烈な印象で焼きついた。自分の中での存在感が増していった。

 翌年くらいから、拓郎と小室等がDJのFM番組を聞くようになり、そこで流れる拓郎の曲を聴いているうちに、吸い込まれるようにその世界の中に入っていった。

 大学に入ると今までには興味のなかった多くのことに視野が広がっていった。民俗学的なことから、文学、絵画、さらには世界情勢まで。そんな中で再び聴いた『アジアの片隅で』が突き刺さった。二十歳の自分には「これだ」と思えた。以降長いこと、ほとんどバイブル的な存在となる。

 ならば紹介するのは『アジアの片隅で』なのでは、とも思うのだが、このアルバムを語るには相当に汗をかかなければならないし、精神的な強さも必要。また、いきなりこのアルバムでは読むほうがつらいのでは。そのくらいに重く、真っ向から向き合わなければ持たない作品なのだ。ということでこれは機が熟してから。拓郎の最初にチョイスしたのが『LIVE ’73』だ。

 吉田拓郎は1975年に小室等井上陽水泉谷しげると一緒に、ミュージシャンによるレコード会社「フォーライフ・レコード」を設立してから自分の名前を漢字表記に変えたが、それ以前のエレック・レコード、CBSソニー時代はひらがな表記だ。だから本作もひらがな。

 ライブ・アルバムだからそれまでの代表曲が演奏されているかと思いきや、さにあらず。この時点で既発の曲はわずかに4曲、その他は新曲とカバーで未発表。既発の曲もまったく違うアレンジで演奏されているので、オール未発表と言ってもいいくらいの新鮮さ。

 そのような形をとったのは何故か。その背景を知るには、拓郎にとっての1973年という年を少し理解しておかなければならない。

 前年の1972年に「結婚しようよ」を大ヒットさせて、一躍「フォークのプリンス」としてメディアに祭り上げられた拓郎。しかし、そもそもフォークというのは反体制的な、アンチなスタンスで歌を武器にして社会と真っ向勝負する音楽である。たとえそれがポーズだとしても。

 そんな中、「街の教会で結婚しよう」と極私的な内容を歌えば、それは純なフォーク信奉者からは反感を買うのみ。

 ここがフォークのターニング・ポイントだった。

 一般のリスナーから「結婚しようよ」は圧倒的な支持を得たのだった。

 メディアは拓郎を追い、ファンもまた拓郎のいるところへ寄せてくる。いわば「時の人」となり、当然敵も増えてくる。

 そんな中、事件が起きた。

 1973年5月、金沢公演のあとに拓郎に暴行されたと女子大生が訴えた。拓郎は逮捕され、1週間あまり拘留されたが、暴行が女子大生の虚偽ということがわかり、釈放された。

 拓郎逮捕が伝えられたとき、メディアは手のひらを返したように拓郎をバッシング。ツアーも途中でキャンセルとなり、拓郎のマスコミ不信はここに極まった。

 浮世の虚しさや無情を痛切に感じただろう。

 本作はそのような一連の成り行きから4ヶ月ほど経ってのライブなのである。

 拓郎のMCもいくらか収められているが、恨みつらみは欠片もなく、グルーヴ溢れる演奏を淡々と、ときに声を張り上げて聴衆を煽る。

 それまでに発表されてきた曲やアルバムと比べると、このライブ・アルバムでは素の拓郎を濃く感じられる、と個人的には思っている。それだけにひとつのターニング・ポイントの1枚として重要な作品なのだ。心底「我が道」というものを見出したのは、本作だったのではないかと。

 本作、クレジットもライナー・ノーツもすべて拓郎の手書きだ(おそらく)。一文認められているのだが、それを掲載したい。

 

 このライヴ・レコードが店頭に並ぶ頃には僕も一児の父親になっている筈である。この父親は、だらしないのだ。生まれてくる子供に何をしてやればよいのかという事さえ知らない。ましてや立派に育てていく自信などないのだ。否、子供はきっと自力で立ち上がるだろう。自力で大きくなっていくに違いない。西暦1973年、この狂気の一年を一体、子供はどういう風に受けとめるだろう。しかし恐らく子供にとっては、それどころではないもっと大きな数々の苦悩が待ち受けているに違いない。僕は古い船に乗り込む新しい水夫である。しかし、子供は新しい船に乗り込む新しい水夫なのだ。

 

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歌詞やタイトル、スタッフ・リスト等すべて拓郎の手書きだ(多分)



 

ホーン・セクションとストリングスの豊穣なサウンド、そこにビート

 

 高中のギターのフレーズが口火となり、すぐさまそこにホーン・セクションがかぶさり、ドラムとベースの熱いビートが唸る1曲目は「春だったね’73」。前年の記録ずくめのアルバム『元気です』収録の人気曲から本作はスタートする。

 オリジナルよりも少し早いテンポで、その疾走感がハイな気分を呼び込む。左チャンネルでは抑え気味にストリングス。右チャンネルにホーン・セクション。

 ミックスはリズム隊を前面に出し、高中のギター、松任谷のオルガンもかなり前に出ている。大編成ではあるのだが、バンドサウンドが基調となっている。

 そうは言っても、贅沢な、芳醇なサウンドである。1973年のライブ音源としては、相当に先端を行っている。グルーヴ感がものすごい。

 間髪入れずにワウの効いたギターのカッティングにストリングス、ホーンが重なってくる「マークII」。あの、暗い歌謡曲みたいな曲が、とんでもなくファンキーでブラックなサウンドで畳み掛けてくる。聴いていて震えが起こるくらい。分厚すぎるドラムとベースがズンズンくる。松任谷正隆ハモンドも切れ切れで、ハモンドっぽくないリズムで疼く。エレピも然り。これをフォークと言うのかいな。拓郎をよく知らない新世代が聴けば、サウンドの古さは感じてしまうのは否めないとしても、フォーク・ソングだとは思わないだろう。

 この2曲は既発の初期代表作なのだが、完全に換骨奪胎。頭2曲で完全にやられてしまったあとに、拓郎のボソボソとした語り口のMCが入る。一部を紹介しよう。

「東京、6月の魔の神田共立講堂以来です。その後、元気でいたでしょうか。えーっ、僕は元気です。最初、メドレー、やりました。懐かしの歌が出てきましたが、もうこんなのも滅多にやることがないだろうと思ってやってます」

 3曲目は「君去りし後」。この後、70年代の拓郎のライブでは定番となるこの曲が初収録。結構アップテンポで演奏されることが多くなるのだが、このライブ盤ではわりとミドル・テンポ。サウンド的には前2曲と同様、縦ノリのブラック・テイスト。この曲でも高中はワウを効かせたカッティング。ここまではジャムやセッションのような、ステージでの攻防のような空気感。

「君が好き」はさらにブンブンいってる。ベースが跳ねまくり、ホーンが締める。ドラムもスネアやタムやハイファットが踊るよう。こんなアップ・テンポな曲でも、左チャンネルからきっちり、薄くはあるがストリングスが鳴っている。B面の「晩餐」と並んで、本作ではもっともアグレッシブな演奏となっている。

 次は「都万の秋」。都万は壱岐島にあった村。平成の大合併でなくなってしまった。ミドル・テンポのフォーク・ロック、The Band風の楽曲。初めて聞いたときから、歌詞がグッときた。

 

 イカ釣り船が帰ると ちいさなおかみさんたちが

 エプロン姿で 防波堤を駆けてくるよ

 都万の朝は眠ったまま

 向うの浜じゃ 大きなイカが手ですくえるんだよ

 

 明日の朝は去ってしまおう

 だってぼくは怠けものの渡り鳥だから

 

 大学時代にあてもなく日本をブラブラと旅していた。その頃の郷愁もあり、今でもこの曲は突き刺さる。ある種のルーツ。

 このあとMC。

「今日はライブの録音をしておりまして。これがレコードになると思うと、怖くて怖くて。どうしよう、なるべくギター弾くまいなどと思っておりますが。田口なんか手だけ動かして、ほとんど弾いておりませんが」

 そして「むなしさだけがあった」は本作では唯一と言ってもいいほどの、諦観の濃い曲だ。B面の「ひらひら」も似たような曲に見えるが、あれはその裏に戦闘むき出しの精神が隠されている。それはあとで触れる。でもこの曲はタイトル通り、ともすれば折れてしまう寸前の打ちひしがれた気持ちが歌われている。本作は全体を通して強いアレンジの曲が並んでいる。そんな中でのこの曲は、聴いているこちらもちょっと力を抜けるほどよい時間をもらえる。

 そしてA面最後が本作の顔ともなる曲、「落陽」だ。本作の代表どころか、吉田拓郎の数多ある名曲の中でも頂点に立つ曲のひとつと言える名作だ。

 イントロは高中のバイオリン奏法。ボリューム・ペダルをコントロールしてピッキング音なしで音を出す奏法。「黒船」と一緒のやつ。ちなみに高中はこの時期すでにサディスティック・ミカ・バンドに参加しているが、2ndの『黒船』は翌年発表されるという頃。ということはすでにレコーディングに向けての楽曲準備などを行なっている時期と思われる。大ブレイク直前ということだ。

 で、その「落陽」のイントロのギターはもはやビートルズの「A hard days night」のイントロと同じで、一発音が出ただけで聴衆を瞬間沸騰させる超高濃度のエネルギーが備わっているのだ。

 かれこれ50年近く拓郎の代表作を務める「落陽」。これが初めてレコード化されて販売されたのがこの『LIVE ’73』なのだ。その後、ライブ盤やビデオ、DVDにことあるごとに収録され、年代ごとの「落陽」を楽しめるのだが、私はやはり本作収録のバージョンが一番好きだ。ちなみに「落陽」のスタジオ録音バージョンは存在しない。珍しいケースである。

 演奏のエネルギーもピークなのだが、やはりこの曲、歌詞がいい。もちろん岡本おさみである。

 

 しぼったばかりの夕陽の赤が 水平線からもれている

 苫小牧発・仙台行きフェリー

 あのじいさんときたらわざわざ見送ってくれたよ

 おまけにテープをひろってね 女の子みたいにさ

 みやげにもらったサイコロふたつ 手の中でふれば

 また振り出しに戻る旅に 陽が沈んでゆく

 

 わかってはいたが今改めて、博打打ちのじいさんの歌なのだと噛みしめる。でもやっぱりサビの部分。また振り出しに戻る旅、というところが20代の若者には響いたのだった。誰もがそうだった、あの時代。私の場合は同時代のリスナーではなかったが、15年遅れでの「戻る旅」を実感していた。原点に戻る、認めたくないが挫折する。いろんな意味で若者の内っ側に刃を突きつけたのだった。

 ギターとホーン・セクションの鬼気迫るエンディングで、A面終了です。

 

 

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当時のライブ・スタイルが垣間見える



極私的でありながら微妙な社会性も醸す歌詞が、独自の立ち位置を明示する

 

 B面最初の曲は小室等の「雨が空から降れば」。アコギがメインで、そこにパーカッション、ストリングス、そしてバンドが順に重なっていく。これがなかなか良い。オリジナルも好きだが、この拓郎バージョンも捨てがたい。歌詞はご存知の通り別役実。「しょうがない、雨の日はしょうがない」は今でも雨の日につい口ずさんでしまうほど刷り込まれている。

 そしてまたR&Bテイストでガシガシ押してくる「こうき心 ’73」。この曲は拓郎のデビュー・シングル「イメージの詩」のB面で、デビュー・アルバム『青春の詩』に収録されている弾き語りの曲なのだが、完全に別物に生まれ変わっている。重たいビートながらファンキーなホーン。ギターは泣き続け、拓郎のボーカルも地声で荒々しい。動き続けるベース・ラインが肝で、松任谷のハモンドも効いている。これはすごいブラック・ミュージックだ。このライブ・アルバムの根幹をなすサウンドの粋みたいなものだ。よく聴くと、この曲にはストリングスが入っていないようだ。

「野の仏」はオーソドックスなフォーク・ロック。エイト・ビートが心地よい。3番からストリングスもイン。間奏のハモンド・ソロがいい。

 

 この頃さっぱり釣りはだめです

 と高節くんが言う

 昔はこんな大物をと両手をひろげて

 野の仏 笑ったような 笑わぬような

 

 ぼくは野の仏になるんですよ

 と高節くんが言う

 だけどこんなにいい男ではと顎などなでながら

 野の仏 こんどはたしかに笑いました

 

 この「高節くん」というのは、南こうせつである。高節くんが釣りをしているという歌で、歌詞を読んでいるとどうも実際にそうだったのではという感じがする。わりと目立たない曲だが、いい感じでずっと心に残る曲でもある。

「晩餐」は拓郎版の「傘がない」である。歌詞を読めばわかる。社会よりも気にかかるのは自分の周囲の生活。半径数メートル。

 

 ぼくらは夕食時だった ぼくらは夕食時だった

 つけっぱなしのテレビだったから つけっぱなしのテレビだったから

 岡山で戦車が運ばれるとニュースが伝えていた

 ぼくらは食べる時間だったから

 

 シャッフルのマイナー・コードのロックでこの歌詞をがなりたててくるから、スリリングだ。だからやっぱ、この曲はロックというよりはR&B。ノリがタテにねちっこいのだよ。拓郎の声はときにうわずり、歌とも呼べない叫び、嗚咽にも聴こえる。つまりそこは葛藤なのだろう。「ぼくらの夕食時」を死守したい思いがありながらも、「戦車が運ばれる」ことに怒りや違和感や憤りを隠し応せないわだかまりが、短い一曲に迸っているのだ。淡々と歌う陽水の「傘がない」だって、表立っていないにせよその憤りは存分に感じられる。

 それを「無力感」と言ってはいけない。時代が変わっても、人間はそんな「どうにもならないこと」に打ちのめされながら生きていかなければならないのだ。

 さあ、クライマックスへと舞台が整った。ラス2。まずは「ひらひら」。

 相当に思い入れのある曲だ。この曲を初めて聴いたのは二十歳の頃か。意気盛んな時代である。吉田拓郎というアーティストの髄、のようなものを感じ取れる曲のひとつであると思っている。そしてそれは二十歳の頃の私の考えていた社会への不信感や、世間知らずの正義感とも言えるものを代弁してくれているかのようで。そして、今の私の根底に未だ小さくも脈々と息づいているものでもある。重要な一曲なのだ。

 

 喫茶店に行けば今日もまた 見出し人間の群れが

 押し合いへし合い つつきあってるよ

 恋の都合がうまくいくのは お互いの話じゃなくて

 見知らぬ他人の噂話 お笑い草だ お笑い草だ

 ああ 誰もかれもチンドン屋

 おいらもひらひら お前もひらひら

 あいつもひらひら 日本中ひらひら

 ちょいとマッチを擦りゃあ

 火傷をしそうな そんな頼りない付き合いさ

 

 アコギの静かなイントロからはじまり、ボーカルとベース、そしてリズムとストリングス、キーボードが重なっていく。印象的なのはコーラスとエレピ。拓郎はわりと淡々と歌っている。高中のエレキもベースもここは前面に出てこない。歌を支えることに徹している。

 締めるのは問題作、「望みを捨てろ」。ファンファーレ様のホーンが鳴り響き、三連のアコギの強いカッティングが続き、そして拓郎の潰れ気味の声が歌う歌詞が聴き手を突き放す。

 

 ひとりになれないひとりだから ひとりになれないひとりだから 

 妻と子だけは暖めたいから 妻と子だけは暖めたいから 

 望みを捨てろ 望みを捨てろ

 

 ひとりになれないひとりだから ひとりになれないひとりだから 

 我が家だけは守りたいから 我が家だけは守りたいから 

 望みを捨てろ 望みを捨てろ

 

 ふたりになりたいひとりだから ふたりになりたいひとりだから 

 年とることはさけられぬから 年とることはさけられぬから 

 望みを捨てろ 望みを捨てろ

 

 望みを捨てろ 望みを捨てろ 望みを捨てろ 望みを捨てろ

 最後はいやでもひとりだから 最後はいやでもひとりだから 

 望みを捨てろ 望みを捨てろ

 

 望みを捨てろ、なのである。

 妻と子だけは暖めたいのである。我が家だけは守りたいのである。年とることはさけられず、最後はいやでもひとりなのだ。

 自己の内面世界での煩悶であり、そこに家族以外の他者は存在しない。鬱屈していた純な叫びがとめどなく溢れ出ている。

 守りたい家族のために望みを捨てろ。望みとは何か。家族との日々は望んでいることではないのか。いや、一番望んでることだからこそ、そのほかの望みを捨てろなのだ。

 大ブレークしたが故に、冤罪とも言える事件に巻き込まれ、自分の望んでいたものの果てがこれだったのかと、虚しさや怒りをぶつけた曲なのではないだろうか。

 歌詞は6番まで書かれており、3番が終わったあとに転調し、バンドの演奏が厚みを増す。そこからは無秩序の秩序とでも言おうか。ビートルズの「A Day in the Life」後半のような混沌。拓郎の声はどんどんかすれていく。それとともに4分あたりでフェード・アウトしていく。これは当時のレコードの収録時間の問題からか。そうだったとしても、ライブ・アルバムの最後の曲がフェード・アウトというのは、余韻を消さずに終わっているようなもので、いつまでも早鐘を打つ鼓動が治らないのだ。

 だが数年前に、YouTubeにこの曲のフル・ヴァージョンがアップされていた。7分を越えていた。最後は声になっていなかった。

 延々演奏される「人間なんて」も圧倒的だが、この「望みを捨てろ」も互角だ。むしろ底通する凄みは増しているようにさえ思える。

 私個人の日常においても、プレッシャーや葛藤に苛まれてどうにも気持ちの置きどころがないときに、「我が家だけは守りたいから」の言葉に大きくズンズンと背中を押されたことが幾度となくあった。同時に、「最後はいやでもひとりだから」に遠くない未来に、覚悟を決めなければならない現実を前にひるむこともある。

 拓郎の曲の中で、この曲は私にとって相当に重要な一曲なのだ。

 

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裏ジャケも実に雰囲気がいい



御大も4月で76歳、いよいよ最後のアルバムとなるのか

 

 拓郎は2003年に肺がんが発覚して手術している。その後数年は見ているこちらも再発がないようにとドキドキしていたのだが、そういうこともなく今年76歳。2009年には気管支炎を拗らせてツアーを一部キャンセルしたが、その後も数年に一度はライブを行っている。ただ、この10年ほどは見るたびに「小さくなってるな」と思わざるを得ない。それはそうだ、デビューして半世紀だ。

 この拓郎世代が日本のポップ・ロックの歴史を更新してきていることは疑いがない。永ちゃん然り、陽水然り、小田さん然り、細野さん然り、それに続くさだも達郎も矢野も。清志郎も生きていれば70歳か。見てみたかった。

 還暦を過ぎて、喜寿も過ぎたというのにスタンス変わらず、未だ熱く音と格闘している。そういうエネルギーがあることも、環境が整っていることも、ある種の奇跡であり、平穏な社会であるからなのではないか。

 二十歳前後の若者たちは、なんのレッテルも偏見もなくこの御大たちに触れる。その上で衝撃を受ける人も少なくないだろう。私は自分を遅れてきた拓郎世代だと思っているが、それだってたかだか10年ほど。そんなことはもはや関係なくなっている。彼らは永遠なのだ。

 そう思うのと同時に、私自身も年をとったと言わざるを得ない。かれこれ40年以上付き合っているアーティストの多いこと。三つ子の魂百まで、とはよく言ったもので、やはりティーンエイジに刷り込まれた音楽体験というのもまた、百までなのだ。

 

 拓郎のことについてはいくらでも書きたいことがあり、今回はごくごく導入に過ぎない。とりあえず本記事の最後にひとつ、気になることを記しておきたい。

 今から20年ほど前に、拓郎は自身が立ち上げたフォーライフを去り、インペリアル・レコードへ移籍した。そしてその10年ほどあと、新たなレコード会社としてエイベックスを選んだ。これには相当に驚いた。ここは小室哲哉ですよ、ずっと小室等だった人が(わかるかな)。

 移籍とともにラスト・ツアー、ということだったのだが、前記の気管支炎で後半キャンセル。しかしその後、何度かライブはやっている。意欲の証だ。拓郎自身も体調がもどかしいだろう。

 だが流石に76歳。つい先頃はじめられた公式ブログを読んでいると、ニュー・アルバムのレコーディングを行っているという。そしてそれが、「ラスト・アルバム」となるらしいのだ。うーむ、複雑な感慨に包まれる。

 そりゃ当然ずっとそこにいて、活動しているものと思っていた。だが同時にすでに後期高齢者だ。いつかは来ると覚悟していたが、来ないで欲しいとも思い、そこには目を向けないようにしていたというのが実際のところ。

 とうとう最後のアルバムとなるのだ。

 キャリア半世紀超のロック・ポップのミュージシャンのラスト・アルバムに立ち会うというのは、日本では間違いなく初めてのことだろう。演歌の方々でもそれは数えるほどなはず。

 日本で最初のコンサート・ツアーを敢行し、日本で最初の5万人規模の野外ライブを成功させ、日本で最初のミュージシャンによるレコード会社を作った人だ。最後のときを見届けたい。

 でも拓郎はいつも裏切ってきた。この『LIVE’73』でも、昔の曲を歌ったあと、「こんな曲ももうやらないんだろうけど」という台詞を言い、1985年のつま恋でのオールナイト・ライブで引退といった発言をしたが、3年後にはツアーを再開した。

 だからこのラスト・アルバムも、信用ならない。

 でも年齢を考えれば、永遠ではない。49年前にもなるこの『LIVE’73』を今再び堪能しつつ、拓郎には永遠の嘘をついてほしい。長い時間が過ぎていったのだ。